129/132
前へ
/132ページ
次へ
 そうだ。そんなはずはない……  大河内が花を持ち込んだのは、遅くとも看護師が石動の治療を始める前。それから今までどれだけ時間が経った? その間、あの忙しい大河内が何の目的もなくロビーに留まっていたと? そうでなくとも、わざわざ花を贈るだけに留める大河内だ。たとえ呼び止めたとして立ち止まってくれる保証はない――  それでも逢いたいのだ。逢いたくて仕方がない。  ふと、目頭が燃えるように熱くなる。発汗器官を失った顔面の右半分は、ほんの少し走り回っただけですぐに熱をため込んでしまう。が、この熱はどうもそれだけではない。その証拠に、石動の視界は早くもじわじわと滲みはじめていた。  交換したばかりの右目のガーゼが熱いものに濡れる。分かっている。こんなものを流したところで現実は何も変わらない……それでも、今は。 「……大河内」 「石動」  その声を。  一瞬、聞き間違いだと疑い、しかし、そうではないことを願いつつ石動は振り返る。たとえ、その願いが叶わなくとも誰も恨みはしない。少なくとも自分にその権利はない。それでも、きっと、ほんの少しだけ運命の神とやらを恨んでしまうだろう。なぜなら、俺は弱いから――…… 「久しぶり」 「……あ」  目の前に立つ男の姿に石動は茫然となる。  ああ。大河内だ。  俺が人生で唯一、愛した。 「案外、元気そうだな」  そして大河内は柔らかく微笑む。後悔と罪悪感とをないまぜにしたその笑みは、優しくもどこかほろ苦かった。
/132ページ

最初のコメントを投稿しよう!

499人が本棚に入れています
本棚に追加