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そうだ。そんなはずはない……
大河内が花を持ち込んだのは、遅くとも看護師が石動の治療を始める前。それから今までどれだけ時間が経った? その間、あの忙しい大河内が何の目的もなくロビーに留まっていたと? そうでなくとも、わざわざ花を贈るだけに留める大河内だ。たとえ呼び止めたとして立ち止まってくれる保証はない――
それでも逢いたいのだ。逢いたくて仕方がない。
ふと、目頭が燃えるように熱くなる。発汗器官を失った顔面の右半分は、ほんの少し走り回っただけですぐに熱をため込んでしまう。が、この熱はどうもそれだけではない。その証拠に、石動の視界は早くもじわじわと滲みはじめていた。
交換したばかりの右目のガーゼが熱いものに濡れる。分かっている。こんなものを流したところで現実は何も変わらない……それでも、今は。
「……大河内」
「石動」
その声を。
一瞬、聞き間違いだと疑い、しかし、そうではないことを願いつつ石動は振り返る。たとえ、その願いが叶わなくとも誰も恨みはしない。少なくとも自分にその権利はない。それでも、きっと、ほんの少しだけ運命の神とやらを恨んでしまうだろう。なぜなら、俺は弱いから――……
「久しぶり」
「……あ」
目の前に立つ男の姿に石動は茫然となる。
ああ。大河内だ。
俺が人生で唯一、愛した。
「案外、元気そうだな」
そして大河内は柔らかく微笑む。後悔と罪悪感とをないまぜにしたその笑みは、優しくもどこかほろ苦かった。
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