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本当は、神様なんて嫌いだった。どれだけ良い子でいても、叶えてほしいお願いを聞いてくれたことなんて、一度もなかったもの。
それでも欠かさず礼拝へ行くのは、学校へすら行けないあたしにとって、これが兄さんと外出できる唯一の時間だったから。
「ちゃんと前を見ないと、転んでしまうよ」
数歩後ろから聞こてくる、甘いテノール。薄雪に覆われた石畳の道は、気を抜けばすぐに転んでしまいそうで。だけど、温かな眼差しが見守ってくれているのを知っているから、あたしは怖くない。
「こんなに綺麗な朝なんだもの。目に焼き付けなきゃもったいないわ」
振り向くとすぐに兄さんと目が合って、小さく胸が高鳴った。昔絵本で見た遠い南の海のように、深く、静かな紺碧の瞳。あたしの大好きな宝物。
ふと兄さんが通りの家々を仰ぎ見るのに倣い、視線を動かす。色鮮やかな化粧漆喰の建物に仕切られ、晴れか曇りか不明瞭な晩冬の空は随分と窮屈そうだった。
そんな重苦しいミルク色の硝子天井が溶け出したように、止むことを知らない粉雪が降り注ぐ。その儚いかけらたちが、帽子からはみ出た兄さんの黒髪を飾った。それはまるで、主の与えたもうた祝福のようで。
息を呑むほどの一瞬に、目が眩む心地がした。
美しい兄さん、優しい兄さん。どこへも行きたくない、本当はずっと……。
「あたし、お腹すいたわ」
込みあがる感情を飲み込んで、兄さんの顔を覗き込む。一つしか歳が違わないくせに、いつだってこの人は、あたしの我儘を許してくれた。
――だけど、一番叶えてほしいお願いだけは、やっぱり言えない。
「仕方のない子だね……あそこに露店がある。パンでも買ってこよう」
そのまま兄さんは、腸詰入りのパンを一つ買ってくれた。
「ありがとう」とそれを齧りながら、また歩き出す。顔を上げれば、街で一番古い教会の塔が、朝霧にけぶる姿で現れた。
――あと少し、もう少し、時間がある。だから……。
「お行儀が悪いよ」と嗜める声がする。
その数歩の距離が苦しくて、優しい声音が哀しくて、堪らずに振り向いた。
「兄さんもお腹すいてるでしょう?」
震える手でパンを差し出した時、兄さんは泣き出しそうに微笑んだ。
――今はただ、この人だけのあたしで在りたい。
真白の雪よ降りてこい。しんしんと、音もなく。
どうかこのひと時を忘れぬように。他には何も望まないから。
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