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 思わぬところで使いっ走りにさせられてしまった。けれど、この場から早く離れられるならどんな用事でも大歓迎だ。蜜はファイルを軽く振って職員室を出た。 「――せんせー」  目的の人物がいる保険室は、職員室がある一階の、少し離れたところにある。三年に進級した蜜は渡り廊下を挟んだ別棟の三階にクラスがあるので、ここには滅多に来ない。 「先生? ……失礼しまーす」  二回コンコンとノックする。応答がないので、三秒くらい待ってドアを開けた。  保健室は春の朝日を受けて、柔らかな光に照らされていた。  手前に薬品棚が並び、右手にあるデスクには書類やらファイルが雑多に積み重なっている。けれどそこに部屋の主はいない。でも鍵が開いているから本人はいるはずだ。 (……風?)  部屋をちょうど真ん中で分断するように立てられたパーティションの向こうで、何かが揺れるのが見えた。  そっと近づいていくと、朝日を遮るように引かれた白いカーテンがふわふわと揺れている。その手前には二つ並んだベッドがあり、窓側のベッドに行き倒れのようにうつ伏せになった男が一人。  くしゃくしゃの白衣とグレーのスラックス。健康サンダルは片方床に落ちている。 「恭治(きょうじ)くん、また二日酔い?」 「ここではセンセーだろ……」  帝大付属校の養護教諭である坂下恭治は、ガラガラとした低い声で不満そうに呟いた。意識はあるらしい。  ゆっくり首だけ動かして、黒く伸び放題の癖毛の間から細い目を向ける。 「はい、せんせー。これ榊原先生から」  頼まれていたファイルをぺしっと恭治の尻に置くと、彼は小さな呻き声を漏らして起きあがった。そしてゾンビのようにふらふらとベッドに腰掛ける。 「うう……お前の兄貴は相変わらず底なし沼だ」 「なんだ、健悟(けんご)くんと飲んでたのか」 「蜜が未だに兄ちゃんって呼んでくれないって嘆いてたぞ」  恭治の言葉に、蜜は曖昧に笑う。 「あは……なんか、まだちょっと恥ずかしくてさ」 「もう家族になって結構経つだろ」  蜜は幼い頃に実の両親を交通事故で亡くし、その後しばらく親戚の家を転々としていた。両親に恩があるという八代家に引き取られたのが八歳のとき。義理の兄である八代健悟はそのとき十八歳だった。そして、恭治は健悟の高校時代からの友人だ。  恭治の言う通り、そろそろ知り合って十年になる。
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