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ところがリノリウムを蹴る足音は、微かな息切れを乗せてわたしの横に並んだ。
「ああ……」とその人は魂の震えを吐息に乗せていた。
横目で様子を窺うと、髪や背広の肩をしっとりと濡らしたサラリーマン風の青年が、感極まるといった具合の表情をして絵画に夢中になっていた。頬を緩ませ、前髪から 矢継ぎ早に滴る雫が鼻筋から顎へと伝っていくのにもまるで頓着せずに、ひたむきな眼差しを注いでいる。
そしてその姿から、とうとう梅雨空が泣き虫を発揮したのだと知った。折り畳み傘を忍ばせて正解だったわ、なんて自分の采配を自賛する。できれば閉館までに雨脚が弱まることを祈りつつ、鞄からハンカチを取り出す。
若い男性だ。おそらくわたしより二つか三つは年少ではと思われたが、人の年齢を見積もるのが不得意なのであまり自信はない。それはともかく、彼はどこか世界観の違う人物に思えた。スーツの着こなしは甲冑を着込んだ騎士のようであり、真っ直ぐ伸びる背と足は姫君をリードする王子様のそれのよう。田舎者の佇まいとは程遠い。ならば唐突に現れた彼が何者なのかと手前勝手な推量をした結果、この人は地元の人間ではないのでは、とわりとそれらしい予想に辿り着いたのだった。
となると、見ず知らずの異性──しかもどこか近寄りがたく、それでいて現実味の薄い幻想的な存在感を放つ人物だ──に「ハンカチをどうぞ」とはなかなか言い出せない。こうした場合、いったいどうした行動に出ればベストなのか。水気もなく乾いている目許や手を拭うには不自然で、しかしながら取り出してしまった以上は用途に添った行動をするべきだ。薄い布地では大した援軍にもなれまいが、わたしは意を決した。
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