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「あの、よろしかったら」
青年は、ちらりとこちらを見て、ここによもや自分以外の人間がいるなどとは思いもしなかった、とでも言いたげに眼を見開いた。きっと、この絵画の中央から右と左で、二人は分かたれていた。わたしたちの平行世界は、ハンカチが境界線を越えたことによりようやく溶け合い、融合したのだ。
「どうもありがとう」と彼は微笑んで言った。眉尻が下がり、寂しさをほんのりと滲ませ、ずいぶんと柔らかい笑い方をするので、こちらもつられて笑みが浮かぶ。そして受け取ったハンカチで額や頬をひたひたと拭きながら、「素晴らしい絵ですね」と言った。
この場にいるのはわたしたち二人だけなので、相槌を打つのはわたしの役目だったのだろう。現に、彼は返事を待つようにこちらを見たので、慌てて差し障りのない言葉を探した。
「この絵をご覧になりに?」
「はい。休暇を取りました」
「まあ、わざわざ……お住まいは遠いのですか?」
「東京です。結構な遠出でしょう?」
東京から秋田までとなると、新幹線に飛び乗っても到着まで約四時間といったところか。さらに乗り換え、二時間かけてようやくこの町が見えてくる。日帰りの移動は相当な強行軍になるため、この人のように休暇を取って観光がてら訪れるのがもっとも効率的である。
そうまでしてこの絵を求める理由があるのも、不思議でならなかった。この郷土博物館は、地元の工芸品や郷土史を取り扱い、絵画は地元出身者の画家が手がけた作品や、大型施設から引き取って劣化を修復したものなどを展示している。しかし、こうしてずらりと並んでいる作品たちを丁寧に眺めたとしても、地元の人間であるわたしでさえ、作家の名前はほぼ初見だ。「どこそこの中学校に展示されていた緞帳の原画ですよ」なんてパンフレットの説明文を熟読しても首を傾げてしまう。学校に飾られている絵と作者名をいちいち覚えていたりはしない。
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