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それはともかく、いばらを千切る娘の強靭な精神は、東京を飛び出すほどの情熱を若者の心に湧かせたのだ。不夜城の輝きと、山深くの遺跡。どちらにより魅力を感じるのかは個人の好みによるだろう。田舎で暮らす人間が都会に憧れを抱くように、その逆もまた、往々にしてあるのかもしれなかった。
娘の肖像に視線を戻す。
「生命力に溢れた絵だと思います」と言う。事実、この絵からは、逆境や苦境に挫けず、生き足掻こうという気概が伝わってくる。「評論ができるほど精通しているわけではありませんが、どこか、こう、必死なのも悪くはないよと、彼女に教えられているみたい」
「ああ、確かに。今にも語りかけそうな表情をしている」
「人生とは、なんて振り返ってみたくなりますね。例えば昔、小学生くらい。こうして必死に徒競走をしてみたことはあったかしら、なんて」
「あったんですか?」
「残念ながら。運動会は苦行以外の何ものでもありませんでした」
彼は笑った。笑ってくれたので、勇気の要る行いも、報われた気がした。
止まりかけのオルゴールみたいに、ぽつりぽつりと間の空いた会話をしていたら、いつの間にか時刻は四時二十五分。職員と思しき初老の男性に「そろそろ閉館です」とタイムリミットを告げられて、どちらからともなく絵画を後にした。
「あの、もう一度お会いできませんか?」
雨上がりの湿ったアスファルトにひたりと足を乗せたとき、それこそ幻想に身を投じてしまったのだと錯覚を起こした。振り返ると、ハンカチを手に微苦笑を浮かべる彼がおり、むしろそのまま返していただいても構わないのにと声に出しかけたところで、なぜか呑み込む。人の出会いとは、車窓からの景色と概ね同様で、記憶に焼き付くよりも素早く通り過ぎていくものだった筈だが。はてさて、どうしたことだろう。
この人が立つ駅に、降りてみたくなってしまった。
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