博物館にて 2

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 例の絵画の部屋へ入ると、既に彼はそこに立っていた。  後ろ姿は一昨日と同じである。うなじにかかるまばらな襟足は、主人にしがみつく猫の爪のように細やかで、深い濃紺の服地は彼をより洗練された人物として演出する。オフィスビル、高級住宅地、繁華街といった都心のイメージがそのまま背広を着て歩いているみたいに見える。事実あの人は東京の人間であるから、連想もあながち外れではないのだが。 「こんにちは」と挨拶をしたら、振り返った彼はにこりと笑った。となりに並ぶとひょろりと背が高くて、「あれっ、こんなにキリンみたいな人だったかしら?」と疑問が湧き出る。貸していたハンカチを受け取るついでに、まじまじと穴が開くほど彼を観察してみたら、雨に濡れていた日曜日よりも目に留まる点が多々あった。瞳の大きな眼、下がり気味の眉、少し癖があって毛先が遊んでいる髪。それから、あまり焼けていない肌と、ごつごつといかめしい腕時計。ピントがずれてふわふわと滲んでいた容貌は、ひとつずつ、先の細いペンでなぞられて、繊細な輪郭を浮き彫りにする。  田園風景に立つにはあまりに垢抜けて、合成写真のモデルのようだった。オフィスビルが立ち並ぶ、コンクリートのクレバスで日々生活している人間ならば、こういった齟齬も生じるものなのかもしれない。 「ご親切に、どうもありがとうございました」と彼は頭を垂れた。下げる、というよりは垂れるという表現が相応しい、のったりとした動きだ。それがますます、眼下に向かって角度を傾けていくキリンによく似ていたもので、このときからわたしの中で彼の愛称が「キリンさん」に決定した。 「絵がお好きなのですか?」  日常とは一線を画す面会において、立ち入った質問は控えるべきとわたしの品性が脳の端で言う。支障のない範囲、という前提を踏まえて言葉を探ると、なんともつまらない、有り体な切り口しか探し出せなかった。 「たぶん、格別この絵が好ましいんです」  こちらの緊張を見抜いているのか、キリンさんの応答はとても柔らかい。そっと寄り添って語りかける、ある種慈母然とした響きに、わたしは聞き入る。
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