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稲本団地中央広場
刹那は永遠と満留の背中を追いかけて中央広場へと急いでいた。二人とも鍛えているせいか脚が速い。それよりも速いのが、鍛えているところを一度も見たことがない遙香だ。いつの間にかいなくなっている。
壷内尊は広場から逃げ出したものの、どういうわけかすぐに夢遊病者の様な足取りで戻ってきた。いや、理由は判っている。遙香が精神を操ったのだ。
それから彼は地獄を彷徨う亡者のごとく、広場の中をウロウロし続けていた。近くを通り過ぎる人々は誰も魔人に気付かず、広場に足を踏み入れようともしない。これも遙香が施した人払いの呪のせいだ。遙香の仕込みは完璧だった。
魔人が広場に戻ってくると、刹那たちは永遠に憑依していた遙香の指示を受け、室内に戻った。
そして、昼食の支度をして、遙香の精神と肉体が一緒に戻って来るのを待って、英明を起こして、食事をして、おやつを食べて……と、ダラダラしていた。
刹那は特に何かをする必要はなかった、メイドの満留がすべてやってくれるからだ。楽だが彼女の料理はお世辞にも美味しいとは言えず、夕食は自分で作ろうと心に決めた。
その間も、尊は広場をフラフラし続けている。そして時間が経つにつれ、彼の身体は萎んで《・・・》いった。
霊力はあっても呪術に関しては完全に素人の刹那だが、魔人化が長時間持たないことは想像がついた。どんな呪術かは判らないが、霊力を大量に消費することは間違いない。
彼の身体は萎んだだけではない、鋼の様だった皮膚は張りが無くなり、ミイラの如く皺だらけで、色も黒いが最初とは違い病的な感じがする。
満留が夕飯の買物に行こうとして、鬼多見が広場で尊を殴っているのに気付き、慌てて飛び出して来たのだ。どさくさまぐれに梵天丸とザッキーも付いてきている。
広場に近づくと、彼女たちより先に遙香が到着していた。
「おわぁッ」
倒れている尊に殴りかかろうとした鬼多見が吹っ飛んできた。
「ったく、死んだらどうすんのよ。これ以上、苦しめられないじゃない」
呆れた口調で遙香が言う。
「おじさん、ムチャしないで」
永遠が鬼多見を助け起こそうとすると、梵天丸も心配そうにクーンと鳴く。
「そいつはおれが生皮剥いで八つ裂きにする!」
立ち上がりながら姉を睨み付ける。
その視線を遙香は静かに受け止め、
「あたしも言ったわよね? 譲る気は無いって」
揺るぎない口調で答えた。
「こいつは……」
「あたしの娘を殺そうとして、あたしが担当している声優を傷つけた。そして、伏見さんから身を護る仕事もあたしが引き継いだ。ついでに満留はあたしの下僕よ。
あんたにとって、朱理は姪だし、刹那はクライアント、伏見さんから依頼も受けてない。式神に噛まれたのは、あんたが未熟なせい。
だから、あんたが唯一あたしと対等なのは、こいつに殺された声優に対する義憤だけ」
遮る様に言われ、鬼多見は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「おじさん、お母さんにまかせよう」
永遠が鬼多見に寄り添い、手を握った。
「お母さん、本気で怒っているもの」
彼女は遙香の瞳を見つめた。
「だから、お祖父さんも、わたしたちを助けに来なかった」
言われてみれば、あの状況を法眼が気付かないはずがない。来なかったのは遙香の怒りを理解していたからなのか。
「こいつをどうするかは、あたしが決める」
「貸しだからな」
ムスッとした声で鬼多見が言った。
「あんたね、どれだけあたしに借りがあると思ってんの?」
呆れた顔をする。
「じゃあ一つ相殺だ」
「フフ、全部チャラでいいわよ」
不敵に微笑む。
「じゃあ、それで頼む」
鬼多見も遙香と同じ顔をした。
「安心しなさい、あんたに殺されたかったって、後悔させてあげるから」
「か、勝手なことを……」
尻すぼみになりながら掠れた声で尊が言った。
「なに? 聞こえなかったわ、ハッキリ言いなさい」
暗い瞳で遙香は見下ろした。
「………………」
さしもの尊も自分の置かれている状況が判ったのだろう。
「今さら、しおらしくしたってムダ」
遙香の身体から験力が溢れ出す。昨日、満留を威圧した時よりも圧倒的に強大だ。それは尊を包み、浸透していく。
「や、やめろ……」
怯えた声が口から漏れた。
「あんたはどうしたの? 朱理と刹那が『やめて』って頼んだときに?」
遙香は身を屈め、尊の眼を覗き込んだ。
「答えなさい」
「………………」
刹那の位置からでも、尊が震えているのが判った。
鼻を鳴らして遙香は身体を起こした。
「あたしがやめる理由なんて、ある?」
験力の動きに変化が起こった。
尊に浸透していった験力が、一気に遙香に戻り出したのだ。
「くかぁああぁああああ!」
尊は耳障りな悲鳴を上げながら仰け反った。
「あんたには、わたしが欲しくても手に入れられなかった物をプレゼントしてあげる。あんたのパパとおそろいでね」
尊は声にならない悲鳴を上げ、涙や涎、鼻水に脂汗を垂れ流した。
「験力……霊力を奪うつもりだ」
永遠がボソリと呟いた。
その一言で刹那は思い出した、遙香がかつて験力を疎み封印していたことを。
「や、やめろ……」
尊の声が微かに聞こえた。
遙香は彼の訴えを無視して験力を己の身体に戻していく。
「やめて……ゆるして……ゆるしてください……遙香、さま……」
遂に尊は遙香に許しを請うた。
満留にも聞こえたのだろう、彼女の顔にサディスティックな笑みが広がる。
刹那は彼女が遙香と会ってから初めて見せる笑顔だと気付いた。
それはそうよね、マネージャーに怯え続けているんだから。
だが、今この瞬間だけは、遙香の恐ろしさに感謝しているに違いない。
「あッ」
永遠が小さく声を上げ、鬼多見が彼女の頭を抱き寄せて尊の姿を視せないようにした。
なに、アレ?
尊の身体から肉塊のような物が引きずり出されている。
「あれがヤツの霊力だ」
鬼多見がぶっきらぼうに言った。
刹那にもそれが霊視により見えているモノであることは判っていた。
霊力があんな形をしているなんて……
皮膚も筋肉も脂肪もドロドロに溶けた人間、刹那はそう感じ吐き気をもよおした。
鬼多見が永遠の眼を覆ったのは大正解だ。一方、本人は平然と見つめている。満留はどうしているのかと視線を向けると、もう微笑んではいなかった。
尊はとうとう耐えきれず、泡を吹いて白眼を剥いた。
「まだオネムの時間じゃないわ」
遙香がそう言うと、尊は意識を取り戻し、再び悲鳴を上げた。
失神することもゆるさないんだ……
「しっかり視ておきなさい、あんたが一般人になる、記念すべき瞬間なんだから」
腕を伸ばし手を広げると、尊の霊力が吸い込まれている。
違う、喰らってるんだ……
「うぉえぇえええ!」
それを理解した途端、耐えきれず刹那は近くの植え込みにもどした。
「ぎぃやぁああぁああああッ、やめてぇ!」
尊は断末魔の様な声を上げる。
だが、すぐにそれは止んだ。
キョトンとした顔で尊は辺りを見回し、次に自分の身体を見回す。彼の身体は皺はそのままだが、黒ずみが消えていた。
「そんな……感じない……霊力が……」
彼は今まで視えていたモノが視えなくなり、聞こえていたモノも聞こえない、そして感じていたモノも感じられなくなったのだ。彼の世界は半分になってしまった。
「視てたでしょ? あたしが食べちゃったんだから、当然よ」
隠してあったお菓子を食べたぐらいの軽い口調だ。
「返せッ、返してくれ! オレが特別でなくなるッ!」
尊は遙香に縋り付くが、彼女は表情一つ変えない。
「一度くり抜かれ、噛み砕かれた目玉を、再び眼窩に詰め込めば見えるようになる?」
遙香の言葉に、尊の表情が凍り付く。
「ウソだ……オレは特別だ、特別なんだ! 特別でなきゃならないんだッ!」
「心配しなくても特別よ。特別なバカ、このあたしにケンカを売ったんだから」
尊の頭を鷲掴みにする。
「な、なにをする気だ?」
すでに心も砕かれ体力も限界なのだろう、彼は抵抗をしない。
「ここまではあたしを脅したあんたのパパと一緒。でも、ここからはあんたが犯した罪への罰」
楽しげな口調だ。
「オ、オレも満留みたいに奴隷にするつもりかッ?」
遙香はバカにした様に鼻で笑った。
「言ったでしょ、あんたは可愛げが無いから嫌だって。それ以前に、レイプ魔の殺人鬼をそばに置きたくない。
あんたは寿命が尽きるまで、自分がしてきたことをあんた自身がされ続けるの。傷つけ、犯され、殺され続けなさい。
なれることもなく、発狂して逃れることもゆるされない、決して覚めることのない最悪の悪夢の中で、現実の肉体が滅ぶのを祈り続けるといいわ」
揺るがぬ意思を秘めた瞳で尊を見下ろす。
「や、やめて……やめてください! 殺すならせめて……」
「一思いに? 残念だけど、それじゃカワイイ弟に申し訳が立たないもの」
笑わない眼で済まなそうに微笑む。
鬼多見は「カワイイ」と言われたところで、気持ち悪そうに眼を眇めた。
「おねがいです……遙香さま……殺してください……おねがいします……耐えられません……」
尊は人目をはばからず、泣きながら懇願した。既に彼は遙香の幻覚を味わっている、その恐怖を理解しているのだ。
「安心して、耐える必要なんてないから。好きなだけ苦しみなさい」
遙香の掌から験力が放たれた。
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