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褞袍男の名は『菊五郎』。この長屋の差配をしている傍ら、表通りに飯屋を開いているらしい。
ちょうど所用で遅くまで外出していた帰りに、行き倒れていた恭ノ介を見つけて世話をしてくれた恩人である。
自分も簡単に名乗ったが、菊五郎は「楪たぁ粋だねぇ」と言ったきりでそれ以上は聞いてこなかった。
詮索されずにホッとしたのは確かだが、拍子抜けしたのもまた確かである。
だが恭ノ介にとってはありがたい気遣いだ。
「お楓、飯は出来てるか?」
「今、御御御付けを温めてるところ」
いきなり障子戸を引き開けた菊五郎に驚いた素振りも見せず、軽く首だけを向けた若い娘が答える。
続いて入った恭ノ介に軽く会釈だけを返すと、また火元に視線を戻した。
「お梅と棗太はまだ寝てんのか?」
「裏。お父っつあんも一緒に井戸で手を洗ってきて」
つけつけとした物言いに菊五郎が鼻を鳴らす。
「やれやれ、どんどん死んだ母ぁに似てきやがる」
「そりゃあ母娘だもの。似るが道理。似なかったら困るでしょ」
「一言余計なのは誰に似たのかねぇ」
「お父っつあん」
即答された菊五郎が苦虫を噛み潰した様な顔になるのを見た恭ノ介は笑い出しそうになるのを必死で堪えた。
「女に口で勝とうなんざ土台無理な話だぁな。旦那、こっちに井戸がある」
「あいわかった」
長屋共同の井戸とは別に差配の家には庭に井戸があるらしい。裏手に回ると、井戸の前に小さな二つの影があった。
「あ、父ちゃん!」
「お前に任せてたら、朝飯が冷めちまう。ほれ棗太、貸しな」
ひょいと長柄杓を掴んだ菊五郎がスルスルと手繰る。
「俺、ちゃんと出来るよ」
不貞腐れて口を尖らす『棗太』を宥める様に菊五郎がぽんと一つ頭を撫でた。
「今日はちょいと急ぐんでな」
ここでようやく菊五郎の後ろに立つ恭ノ介に気付いたらしい二人が慌てて菊五郎の陰に隠れ、恐る恐る顔を出す。
「だぁれ?」
女児の方が物怖じしないのか、小首を傾げて見上げてくる。男児は後ろ手に女児を庇いつつ、やはり小首を傾げて見上げてくる。その表情はとてもよく似ていた。
【差配】大家の代わりに家の管理を任された者。
【御御御付け】味噌汁。
【長柄杓】滑車式の釣瓶が普及していなかった頃に井戸から水を汲むのに使われていた柄の長い柄杓。
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