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第127話「痛みのゆく先~私の原点」
夏も間も無くとなったある日。
暑さを含み始めた風が丘の上を通り過ぎるジューネベルク市民たちの公共墓地。
そこに、私たちは居た。
「………叔父様」
青く抜ける様な空の下、私は名前の刻まれていない小さな墓石を指先で撫でた。
トラヴィス・ダイロニクス
アペドラルの名を剥奪され同家の墓に入る事も、また生前治めた郷里に埋葬する事も許されず、彼は首都リアドからセレネの森を越えた先にある少し辺鄙なこの公共墓地へ、名も無き者として葬られた。
貴族の当主にしては余りに小さな墓石には、彼を示す名すら刻まれていない。
素っ気ない、簡素な石ころだった。
「親父殿が、ここにしたんだっけか」
「ええ」
背後から聞こえた声に私は墓石を見詰めたまま小さく頷く。
「アペドラルに戻す訳にはいきませんし……かといってベネトロッサの墓にも、彼は入れませんから」
叔父のした事を思えば当然と言える。
真理の目の魔術師と共謀してベネトロッサの当主や次期当主たちを殺害しようとしたばかりか、星骸の塔に甚大な被害を与え、更には祖国をも滅ぼそうとした。
これは、許されざる大罪だ。
反逆者として遺体を晒され、一族も責めを負うのが当たり前とされるほど大きな罪。
だが、そうはならなかった。
私の父ーー彼の兄でもあるランドルフ・ベネトロッサがトラヴィスの遺体を早々に燃やしてしまったからだ。
地下から掘り出されたトラヴィスの遺体は判別が付かぬほど潰れており、欠損も見られ、とてもではないが人と呼べる状態をしていなかったのだそうだ。
「貴族議会では事後処理について揉めた様ですが……」
先日の貴族議会で、父は叔父の遺体の処遇について問われ、こう発言したらしい。
『燃やして埋めた』
兄から伝え聞いた貴族議会の紛糾する様が、私の脳裏にありありと浮かんでくる。
それでアペドラルの罪が雪がれるものか。
ベネトロッサの一門だから許されるとでも思っているのか。
陛下の承認も無く処理するなど、一貴族としての権限を超えている。
ベネトロッサもグルだったのではないか。
そうした疑問や疑惑、誹謗中傷の嵐が吹き荒ぶ中、陛下は沈黙を守られ、父に事情の説明を求めたのだそうだ。
父は貴族たちの疑念や中傷をひっくるめて答弁したそうな。
『晒せと言うが……貴兄らはあの肉片を目の当たりにして、それが紛れも無く旧アペドラルの当主であると認識出来るのであろうか』
淡々とした声音で。
自身の弟の事で他者に理解を求める様な同情的な口調ではなく事務的に、ただ淡々と。
その声は人の声と呼ぶにも障りがあるのではと思われるほど、ただ抑揚の乏しい音としてしか発せられておらず……その場に居た者は皆盛大に固まったと、議会に随伴していた兄から聞いた。
『誰の物かも分からぬ肉片に石を投げた所でどうなる。その様な行為は無価値であり、無意味だ。晒した所で今後に有効な見せしめになるとも思えぬ。警備に割く人と、保存する為の場所、時間と費用の無駄だ』
現状、ジューネベルクに無駄金を使う余力はない。塔はリアドの象徴であり我が国の財産である。その再建こそが、この場合最優先されるべきだとベネトロッサ准公爵は魔術師としてでなく、公国貴族として主張したそうだ。
『ただの肉の行末など、知った事ではない』
冷徹な言葉にその場で糾弾しようとしていた貴族たちは一気に勢いを失ったらしい。
反逆者とはいえ、かつては自身の弟であった存在に対し、余りに情が無さすぎると囁かれた。
血を分けた弟を、ただの肉片と言い切ったのだ。私だってその場にいたら余りの発言に驚愕するだろう。
記憶も思い出も、私よりもずっと沢山、父と叔父にはあっただろうに。
それを何も無かったかの様に、意味のないものだと切り捨てたのだから。
「……親父殿らしいな」
「本当に」
正に“氷の宰相”と呼ぶに相応しい。
氷の宰相ーーこれは塔での父の階位を示す称号ではあるが、それが貴族たちの間でも普及しているのは、こうした場面での父の態度に依る所が大きいのだろう。
今回の件で貴族たちは益々、ベネトロッサの当主には血も涙もない。人の心など微塵もないと強く認識したはずだ。
でも……
「燃やして埋めた。素直に火葬して埋葬したと言わない辺りが、本当にお父様ですよね」
叔父の遺体を確認したのは父で、掘り出した作業員ですら目を背けるほどの惨たらしい遺体を前にあの人は眉1つ動かさず睥睨して零したのだと言う。
『動かすのに不便だ。日にち経過して臭いも酷い。不衛生だな』
と、魔術師の1人を呼び寄せその場で灰にしたらしい。
作業員が卒倒しそうになるのを放置し、灰になった叔父を手早く掻き集めさせると自身は触れる事なく、それを上級導師会の議会所に郵送させたらしい。
着払いの荷物扱いで。
酷い扱いだろう。
血も涙もない。
けれど私は知っている。
父が確かに叔父を悼み、そして誰からも害される事なく静かに眠れる様に、この公共墓地の、名も無き石を墓標に選んだのだと。
冷酷非情に徹したのもその為だろう。
私がここを知ったのはネイトに聞いたからだ。
ネイトは親友のヨハン君に聞いたらしい。
ヨハン君は……誰から聞いたのかは知らないが、サミュエル導師曰く「彼のお父君は塔の諜報部に所属されていますから」との事なので、そのツテでネイトに教えてくれたのかも知れない。
「見晴らしはいいな」
ルーちゃんがそう言って辺りを見回した。
小高い丘の上。
眼下には遠く離れた位置に公城と、そして私たちの住むベネトロッサの邸宅が見える。
叔父が幼き日を過ごしたベネトロッサ家。
父と兄弟として僅かな時を、思い出を刻んだ場所がここからは良く見える。
「お父様は叔父様に、帰って来て欲しかったのかも知れませんね」
母が言っていた。
昔の父と叔父は母が羨むほど仲の良い兄弟であったのだと。
それがどうして、こんな事になったのか。
「………私の、所為だったのかな」
「何?」
ぽつりと呟くとルーちゃんが不思議そうに首を傾げた。
私は苦笑しながら言葉を紡ぐ。
「私、叔父様に嫌われていたんです」
「そうか?……そうは見えなかったが」
彼は目を瞬かせた。
恐らく、彼の脳裏にはアヴァロンに収容される前に顔を合わせた叔父の姿が浮かんでいるのだろう。
私は言った。
「叔父様は、私の事が嫌いでした」
「けど、何となく庇ってたろ。アヴァロンの時は」
「ええ。傍目に見ればそう見えたかも知れません。でも……」
私は嫌われていた。
叔父ーートラヴィスに。
それを私は知っている。
父も兄も他の家族も、恐らく叔父本人ですら私が気付いているとは知らなかっただろうが
「私、臆病ですから」
誰よりも人の目を気にして生きてきた。
勿論、小さい頃は少しも周りの気持ちを疑う事はなかったが……1度病気をした時に、私は叔父の見舞いを受けた事がある。
あの時は父も母も医師との話し合いで忙しく、私は1人病室で苦しんでいた。
そんな時、叔父が見舞いにやって来たのだ。
沢山の本や果物を持って。
早く元気になりなさい、そう言っていた叔父の目が、少しの痛みも抱いておらず……姪を勇気づける様な言葉を並べながら、その眼差しが酷く冷えていたのを覚えている。
元気な時も時折、叔父が私を睨む様に見ていたのを知っていたが、ずっと気の所為だと思っていた。けれど、あの時ーー病の床について私を守るものがない病室で、あの人は言ったのだ。
『いっそ死んで楽になれば良いものを』
元気におなり、とか。大丈夫だよ、ではなく、死ねばいいのに、と口にした。
熱に浮かされて意識が朦朧としていた時期ではあったが、優しかった叔父のその言葉に私は酷く驚いた記憶がある。
「……恨んでんのか」
ルーちゃんが聞いた。
多分、私が思い出した映像を覗き見したからだろう。
彼は酷く不快そうな、それでいて複雑そうな表情をしていた。
私は静かに頭を振った。
「いいえ」
「そうか?……元々は、あの野郎がお前に人工合成の“神の雫”を飲ませたのが原因だろう」
「確かに。それで私は死にかかって貴方たちの心臓を飲まされて、回路を潰されました」
魔術師としての将来を絶たれ、人でありながら“終わりの竜”の断片として作り替えられた。
「でもね、私……私は……叔父様の事、嫌いじゃなかったの」
「なんで?敵だろ、こいつは」
「確かにそうです。私に沢山嫌な事をして、お父様や……お兄様たちの事も殺そうとしました」
「なら、なんで嫌わない」
彼の疑問に私は苦笑いをしながら思い出す。
「記憶がね……思い出があるから」
もうずっと昔の事。
私がまだ“落ちこぼれ”になる前。
才気煥発な天才少女と呼ばれ、お父様やお兄様たちに愛されて育っていた時代。
無邪気な子供だった私は、時折屋敷に遊びにくる叔父が大好きで、いつも本を読んでくれとねだっていた。
父とは違い表情が柔らかで面倒見の良い優しい叔父は、いつもいつも私のワガママを聞き入れて沢山の本を読んでくれた。
温かく広い膝の上に我が物顔で陣取っていた日々の事を、私は懐かしく思い出す。
叔父はいつも当時の私が読む事の出来なかった異国の本を読み聞かせてくれた。
興味の塊の私が「これは何、なんて読むの?どういう意味?」と途中で幾ら止めても怒ったり嫌な顔をしたりする事はなく、ただ静かに微笑みながら読み方や文字を教え、時には「これはジューネベルクで有名な〇〇の基にもなっているよ」などと、雑談や脱線を交えて私の興味を満たしてくれた。
去年死んでしまった愛犬を私に与えてくれたのも、この叔父だった。
「叔父様は、私の事が嫌いだった。でも……私の事を、育ててくれた」
「意味わかんねえぞ。嫌いで殺そうとしたのに育てるって、矛盾してんだろ」
「そうですね。でもそれがトラヴィス叔父様なの。私が……今の私がいるのは、叔父様のお陰なんです」
私の原点。
知識に対する貪欲な興味を育てたのが、この叔父だ。
彼の膝の上で本を読み聞かされたあの時代、私の世界は確実に広がっていった。
あの人が私の興味を導き、才能を拓いてくれたのだ。
それが後々私を利用する為だったのだとしても、今の私はこう思う。
叔父こそが我が人生最初の師であり、あの人に導かれてーー今の私があるのだと。
「叔父様はアペドラルを名乗ってはいたけれど、私にしてみれば紛れも無く、ベネトロッサでした」
何故嫌われていたのかは今でも分からないし知りたいとも思わないが、それでも1つ確かな事は、叔父が私という後輩を育てようとした事だ。
損得勘定があったのかどうかなど些細な事で、あの当時、叔父が好きな様に私の興味を満たし、好奇心を成長させなければ今の私はなかっただろう。
あの当時、私は甘やかされていた。
もし叔父がいなければ、ネイトの様に勉強嫌いになっていた可能性もゼロではない。
そうなれば召喚の儀に失敗したその年に、私は「魔術師なんて辞める」と早々に見切りをつけて他の家へ嫁いでいたかもしれない。
私が魔術師である事に固執し、今の今迄努力してきたのは、いずれ叔父の様に誰かの成長を助ける存在になりたいと思ったからだ。
ベネトロッサの魔術師として後進の教育に関わりたいと願ったのは父の姿を目の当たりにしてきたから。でもそれだけ、とは言いきれない。
最初の切っ掛けはあの人が……叔父が私に知らず知らずのうちに学ぶ楽しさを植え付けてくれたからに違いない。
「今なら……今だから、そう思うのかも知れませんけれど」
叔父のした事が原因で私は落ちこぼれになったが、お陰で沢山の大切なものを手に入れた。
だから、私はこの人を嫌いにはなれない。
「……変わったな、お前」
「ですね。きっと以前の私なら、叔父様を責めて、恨んで……彼の家族にすら憎しみを抱いたかも知れません」
私は弱かったから。
真実はいつも残酷で、世界は私に優しくないと知ったから。
けれど今は、その世界の無情すらも赦す気になれた。
世界は変わる。
時間と共に。
ただ1歩、少しでいいから前向きになれれば、根本的な世界の有り様は変わらなくとも、受け取る側から見た“世界”は変わるのだ。
意識の問題。
そう言うべきなのだろう。
私の世界を変えた原点は叔父だった。
そして今ーー弱い私の心を改変しているのは、叔父とは別の存在になった。
「私が変わったのだとしたら……近くに、いいお手本がいますからね」
「あ?何のこった?」
「ふふっ」
呟くと彼は首を傾げた。
叔父様の他に私を変えた人物。
それは間違いなく彼である。
世界に嫌われ、神に嫌われ、全ての生き物から憎まれ蔑まれてなお、たった1つの願いの為に生きると言い放ち、今もそれを実践し続ける人が傍にいるから……私は生きているのだと思う。
ねえ、叔父様
私、生きますよ
貴方に嫌われて、憎まれて、他の皆から背を向けられても、私は生きていきます。
この世界で。
優しくはない冷たい氷の様な世界だけれど、貴方は知っていますか?
氷は日差しを浴びると溶けて命を育む水となり、またその輝きを受けて七色に輝く美しさも持つものなのだと。
霧氷の如きこの世界。でも今の私には愛しい太陽が傍にある。
だから、私は生きていける。
生きていこうと思う。
「ねえ叔父様、いつか……」
ずっとずっと先になるかも知れないけれど、もし私が誰かを導く事が出来る様な人間になれたなら、貴方の話しをしてもいいですか?
きっと貴方は嫌がるだろうけれど。
いつか、もう一度、貴方にベネトロッサの名を返す為に。
「私、頑張りますから」
落ちこぼれで役立たずのゴミ屑魔術師ではあるけれど、私は貴方に受けた教えを伝えたい。
学ぶ楽しさ。
知識の尊さ。
飽くなき好奇心。
そしてそれを活かす為の、心の強さを。
名前すら刻まれる事のない墓石に黙祷しながら、私はその「いつか」を夢見て、気持ちを新たにするのだった。
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