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彼に隠している嘘。それ以外にも見られたくない部分が全部露呈してしまいそうで怖かったから。
「ありがとうございます! じゃあ、お先に失礼します」
満面の笑顔のまま深々と頭を下げた仁の背中を見送って、圭志はわずかに目を伏せた。
「古崎係長……か」
昨日まで何度注意しても敬称をつけて呼ぶことがなかった仁が初めて『係長』と言った。
二人の間に出来た複雑なわだかまりは、上司と部下という関係性を明確にし、恋愛という非現実的な概念を壊してしまったのか。
まるで他人行儀――。圭志の注意は秘めた感情の裏返しだったと気づくのは、仁にとって難しい事だったのかもしれない。
「バカ正直者……」
誠実で嘘と不正を嫌う彼の性格。それを知っていて、彼の想いを弄んでいたのは自分なのに……。
昨夜、彼の感触を思い出すためにさんざん口に含んだ人差し指をそっと唇に押し当てる。そこには絆創膏が貼られていた。
誰にも触れさせたくない。彼の舌先を忘れないためのまじないのようなもの。
この傷が消えた時、自分の想いも消える。そう――自分自身でかけた呪い。
彼は自分にとって優秀な部下でしかない。恋心を抱ける相手ではないのだ。
「――終わったんだよ。全部、終わった……」
そう呟いて、胸の奥がキュッと締め付けられる。その痛みに眉根を寄せながら、圭志はエレベーターホールへと足を向けた。
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