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唇の端を片方だけ上げてニヤリと思わせぶりに微笑んだ松下は、ポンッと仁の肩を軽く叩いてから自分のデスクに戻って行った。
そして何事もなかったかのようにファイルを広げ、ペンを片手にこめかみに指先を押し当てている。
仁はゆっくりと肩越しに振り返り、圭志の座るデスクを見つめた。
ノンフレームの眼鏡のブリッジを中指で押し上げて、斜に構えたまま書類に目を通す姿は誰が見ても近寄りがたい。
まるで見えないシールドに包まれている。誰も近寄らせない。誰にも触れさせない。
しかし、仁の腕の中で頬を上気させて達した彼の姿を知っているだけに、それが本当の姿でないことは分かっていた。それだけじゃない。マンションでの取り乱した様子は、普段冷静沈着を貫く彼とは思えないほど、見ている方が息苦しさを感じた。
『お前が今見てるものは全部ウソだって言ったら……。それでもお前は、俺を信じられるのか?』
その言葉が今も頭から離れない。
彼が吐いている嘘――それが何なのか知りたい。
いや、正確に言うのであれば、それを知ったうえですべてを受け入れて愛したい。
何を信じ、何を疑う……。
仁の中にある真実とは、圭志のすべてだった。
彼が嘘だというのなら、それを真実だと認めよう。彼が信じないというのなら、信じるまで語り合おう。
そして、彼が望み、手を差し出してくれるのなら、その手を掴んで離さないと誓おう。
「――まだ、終わってはいない」
仁は自分に言い聞かせるように、そして見つめる視線の先にいる圭志に甘く囁くように――そっと呟いた。
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