4人が本棚に入れています
本棚に追加
1
蝉の声がせわしく聞こえてくると、懐かしく思い出す記憶がある。
あれは中学3年生の夏休み。
それは、蒸し暑い夏の午後だった。
受験生の私は、毎日駅前の雑居ビルにある、進学塾の夏期講習に通っていた。
まじめといえば聞こえはいいが、結局、何の取り柄も無いつまらない女の子だったのだと思う。
私は母親の言うことを聞く、いい子でいなければいけないと、思っていたのだ。
塾に来ると授業が始まるまで、席に座って一人で待っていた。
すると、前の席に座っている、二人の女の子の会話が聞こえてきた。
クスクスと笑いながら楽しそうに話している声を、私は黙って聞いていた。
「ねえねえ、知ってる?小学校のプールに無断で入っている、男子がいるんだって!」
「まじ、それって不法侵入でしょ?」
「やばいよね?捕まったら内申書にひびくじゃん。」
「ていうか、そんなことして男子ってバカだよねー」
「ほんと、バカだよねー」
扉が開いて先生が入ってくると、二人の女の子は話すのをやめた。
いつもは塾が終わると、私は、真っ直ぐ家に帰った。
雑居ビルの自動扉が開いて外に出ると、夕方だというのに、まだ蒸し暑くて汗が噴き出てきた。
こんなに暑いと塾の子たちの話しじゃないけど、プールに入ってみたい気もする。
でも、早くエアコンの利いている涼しい家に帰ろう。
今日も私は、寄り道しないで、真っ直ぐ家へ帰るはずだった。
「木藤!」
だれ?
私の名前を呼んだ人は、アイスを食べながら近づいて来た。
あっ!思い出した。
たしか同じクラスの、永瀬という名前の男子だと思い出す。
すぐに誰だかわからなかったのは、制服じゃなくて、私服だったからなのかもしれない。
同じクラスだとしても、一度も言葉を交わしたことないのに、なんで声をかけてきたのだろうか。
私は、他人のふりをして、顔を背けて無視して帰ろうとした。
「いゃあ、毎日暑くてまいっちゃうよなー。俺の部屋エアコン無くて暑くてさ。そうだ、一緒に涼しい所に行かない?」
そう言うと突然、永瀬くんに手を掴まれた。
「あっ!?・・・え?え?」
ビックリして声にならない。
嫌だ、触らないで、手を離してよ。どこに連れてくの?
そう言いたいのに、怖くて声にならない。
怖くなってしまった私は、手を振りほどくことも出来なかった。
「いいだろう?行こうよ」
どうしよう、早く家に帰りたいのに・・・。
困って泣きそうになったので、私は下を向いて黙って歩いた。
この時の私は、どうしてハッキリ嫌だと言わなかったのだろうか。
「おっ!?ラッキー、アイス当たった!!」
永瀬くんにアイスの当たり棒を見せられても、私は何も言えずに黙っていた。
どう言えばいいのかわからなくて、言葉にならなかったのだ。
私が黙ってしまったからなのか、永瀬くんも黙って目の前を歩いている。
あれ?
気が付くと、つないでいた手は、いつの間にか離れていた。
今なら家に帰れるかもしれないのに、どうして私は、長瀬くんの後を歩いているのだろう。
駅前の商店街から住宅街を歩いていると、大きな建物が見えて来た。
どうやら、学校らしい。正門には、小学校と書いてあった。
まさか、塾の子達が話していた、小学校のプールに入っている男子って、永瀬くんの事なのかな?
でも、長瀬くんは小学校の正門には入らず、通り過ぎて歩いて行った。
違ったのかな、だとしたら一体どこへ行くのだろう。
しばらく歩いていると、永瀬くんは小学校の体育館裏で止まった。
小学校の金網のフェンスには、人がひとり入れるほどの大きさに破れているのが見える。
破れているフェンスを、私があ然と眺めていると、永瀬くんは、手慣れた感じにフェンスをくぐり抜けて、小学校の中へと入って行った。
「木藤こっち。入るとき、頭に気を付けて」
フェンスの中に入ろうとすると、私のスマホが鳴った。
鞄の中からスマホを出して画面を見る。
「ちょっと待って電話・・・お母さんから・・・」
私は、急いで電話に出た。
「もしもし・・・はい、今塾の友達と一緒です。・・・はい、勉強を教えてました。・・はい・・・ハンバーガーショップにいます。・・・お金はあります。・・・はい、遅くならないうちに、帰ります。・・・はい、わかりました」
電話を切ると、自分が言ってしまったことにビックリする。
スマホを鞄にしまったとたんに、私は不安になってきた。
「嘘、言っちゃった・・・」
私は泣きそうになったのを、はははと笑って誤魔化した。
早く家へ帰りたいのに、どうして嘘を付いてしまったのだろう。
だけれど、今このフェンスの向こうに行けば、新しく何かが始まる予感がするのを、期待しているのかもしれない。
でも、本当に行ってしまって良いのかと、フェンスと永瀬くんを交互に見て、迷っていた。
それを、黙って見ていた永瀬くんは、私に笑顔を向けて言った。
「行こう!!」
その言葉に促されるまま、私も小学校のフェンスの中へと入った。
私は、ドキドキと高鳴る興奮を抑えながら、永瀬くんの後を追った。
最初のコメントを投稿しよう!