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雑居房の中は再びシンと静まり返る。時おり古びた船体の軋む音が響くのみだ。すると酒店の店主、稲葉が他の者に向かって身を乗り出し、声をひそめて切り出した。
「なあ……逃げるってのはどうだ!? 今ならまだ間に合う!」
しかし、他の者の反応は薄かった。フリーターの久藤は困ったように肩を竦める。
「や……それはやめといたほうがいいっすよ。この《護送具》で繋がれてる間はね。今までそうやって逃亡を図って、生き残ったゴーストはいないって話ですもん」
そう言って久藤はそれぞれにはめられた手錠と首輪―――《護送具》と呼ばれる金属塊を指さした。
看守によれば、《護送具》にはGPS機能がついており、衛星を介して徹底的に管理されているらしい。おまけにもし囚人が船から逃げ出したり、《護送具》を勝手に外そうとしようものなら、数千ワットの電流が流れるようになっているのだという。
たとえ《護送具》の解除に成功したとしても、武装した看守と武装した護送船が行く手を遮っている。さらにそれらの追っ手を躱したとしても、ここは海上だ。どこにも逃げ場などない。そのせいか囚人護送船の航行史上、ゴーストの脱走者が出たことはないそうだ。
「そもそもゴーストって何なんだ⁉ 俺はただゴースト反応が出たってだけなんだ。自分の能力……アニムスが何かも分かってないってのに……!」
河原が苛立ちを募らせて語気を荒げると、気の弱そうな公務員の田中が引きつった半笑いで相槌を打った。
「あ、そういう人多いらしいですね。結局、死ぬ間際まで自分のアニムスが何か分からなかったっていう……」
異能力者―――ゴースト達の持つ不可思議な力はアニムスと呼称されているが、その由来も原理もいまだ謎に包まれている。彼らが何故そんな力を手にしたのか。世界中のあらゆる研究機関がゴーストの研究を行っているが、その実態はほとんど解明されていない。
ただ、分かっていることもある。それはゴーストの多くはもともと普通の一般市民だったということだ。ごく普通の生活を送っている何の変哲もない人間が、ある日突然、超常的な力に目覚めるのだ。
その異能力はゴーストによってさまざまで、火や水などの物質を操る能力からゴースト自身が透明化するなど身体が変化する能力。他人の心や精神を支配する能力など多岐にわたる。ゴーストの数だけアニムスの種類があるとも言われているほどだ。
まるでファンタジー世界のような奇怪な能力の数々は、次第に社会の中で恐怖と嫌悪、摩擦といったあらゆる悪感情を招くようになった。それが大きな軋轢へと変わるのに、さして時間はかからなかった。
そして今やゴーストの存在は人間社会全体に巨大な歪みを生むまでになっていた。
(ただ……それだけならまだしもだけどな)
深雪は胸中でつぶやいた。この隔離政策には深刻な問題がある。それはゴースト全員が分かりやすく異能力に目覚めるわけではない、という点だ。
ゴーストになった人間は《アニムス波》という名の、特殊な波長の電磁波を発するようになると言われている。ところが同じゴーストでも、アニムス波が強い者もいれば、弱い者も存在する。
アニムス波が微弱な者はアニムスがはっきりとした形になって発現することもなく、一般の人間と何ら変わりがない。だが、それでも等しくゴーストとして扱われ、東京に送り込まれているのが実情だ。
おそらくこの房内の者も、ほとんどがはっきりとしたアニムスを持たない者たちなのだ。だからこそ、こんなにも不安そうな表情をしているのだろう。
「……もういい。そんな話はたくさんだ!!」
稲葉はまたしても頭を抱えて呻く。河原はそれを不機嫌そうに見つめていたが、口を挟むのも面倒になったらしく、今度は悪態をつくことはなかった。かわりに深雪のほうへ視線を投げると、訝しげに尋ねてきた。
「……おい、兄ちゃんはどうなんだ。さっきから黙ってるが、何か知らねえのかよ?」
「さあ……俺は何も」と深雪は小さく答えた。
「俺は何も知らない。最近、冷凍睡眠から目覚めたばかりだから……」
すると、それを聞いた久藤が不思議そうな表情をした。
「コールド……何スか?」
「冷凍睡眠ですよ。SFなんかによく出てくるでしょう。いわゆる人間の冷凍保存ですよ」
何故か田中が嬉しそうに説明したので、房内の視線がそちらに集中する。すると、それに気づいた田中は恥ずかしそうに付け加えた。
「あ、すみません。僕、結構映画好きで……特にSF映画が好きなんですよ。それでつい……」
「ふうん……って言うと何だ? 兄ちゃんは冷凍づけにされてたってのか? サンマやマグロみてえに」
稲葉が目を瞬かせると、河原が不機嫌そうに深雪を睨みつけた。
「馬鹿馬鹿しい。そんな話、聞いたこともねえ。だいたいどうして人間を冷凍しなきゃならねえんだ? それでいったい誰が得をする?」
「………」
深雪は何も答えなかった。いや、答えられなかった。深雪とてすべてを把握しているわけではない。どうしてこうなったのか。これからどうすればいいのか。分からないことが山のようにある。
そもそも深雪はただでさえ二十年前の人間なのだ。河原たちより多くの情報を知っているはずもない。聞くことはあっても、答えられることはないのだ。
ただひとつ、彼らと違うところがあるとすれば、深雪は望んでこの東京行きを受け入れていることだろう。深雪は東京で生まれ育った。だから生まれ故郷に戻って確認したいことが山ほどあるのだ。両親はどうなったのか。学校は、友人は、そしてかつての仲間たちはどうなったのか。
だが、それを彼らに説明したところで理解は得られないだろう。深雪はジャケットのフードを目深に被り、河原の視線をやり過ごした。
「……。無視ですか……」
「クールっすねー」
深雪の反応に、田中と久藤は顔を見合わせて肩を竦める。一方の河原は顔をしかめると聞こえよがしに舌打ちをし、吐き捨てるように言った。
「チッ……これだから最近のガキは……!」
「それが賢明かもな。こうやって話したところでラチが明かねえ……体力の無駄だ」
稲葉が最後にそう締めくくった。観念したのか、それとも愚痴を吐きだして少し落ち着いたのか。大きく溜め息をつくと、そのまま口をつぐんで黙りこんでしまう。
房内に再び沈黙が下りる。それきり誰かが口を開くことはなかった。
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