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深雪は歯を食いしばった。
「くっ……!」
終わった――そう思った。高山は手加減などしないだろう。今さら躊躇するとも思えない。あの上空に閃く鋭い刃が振り下ろされる時、自分の命も終わるのだ。
しかし、バタフライナイフが深雪にまで到達することはなかった。
あとわずか数センチというところで高山の動きがぴたりと止まったのだ。
いったい何事か。
深雪は戸惑いつつ、高山を見上げる。
高山はナイフを振り上げた状態のままで硬直していた。
何があったのか、と深雪はその姿を凝視する。
やがて胸のあたりに、真っ黒い刃のナイフが突き刺さり、その先端が覗いているのに気づいた。高山が所持しているシルバーのバタフライナイフとは全く別の、大ぶりなサバイバルナイフだ。
深雪は高山の背後へと視線を巡らせた。そこにいたのはガスマスクのようなもので顔面を覆った、見覚えのある真っ黒い巨大な人影だ。
その影――《レギオン》が高山の後ろからサバイバルナイフで胸部を一突きにしている。
「あ……かはっ……! こ、れは……⁉」
高山は引きつった顔でごぼりと口から血を溢れさせた。何が起こったのか理解できない、そんな様子できょろきょろと瞳孔を忙しなく動かしている。
深雪は更におぼろげな視線を動かした。
そして高山と《ファントム》、その後ろの離れたところに、見覚えのある赤い頭があるのに気づく。
「流星……!」
深雪は呆然とその名を口にした。流星は手の中のハンドガンを構え、銃口をまっすぐ高山に向けていた。
その顔には、いつもの飄々とした軽さは無い。工場外から差し込む光を背にしているせいか、眼光に凄まじい威圧感がある。
流星は感情の篭らない淡々とした口調で言った。
「――ゴーストが人と違うのは事実だ。ここが弱肉強食の世界だというのもな。ただ、お前はひとつ過ちを犯している。それは、自分が『食物連鎖』の頂点に立っていると思い込んでいることだ」
「あ……あっは……⁉ これ、シャレに……なんない………」
「《死刑執行人リーパー》が存在する限り、秩序を乱す行為は許されない。……もっと早くに知っておくべきだったな」
高山は何とか後ろを振り向いて襲撃者の顔を見ようと、胸を突かれた状態のまま首を傾ける。
だが、流星は変わらず冷徹にそう続けると、最後に自らの傀儡に向かって「……やれ」と命令する。
《レギオン》の動きは迅速だった。
高山を突き刺していたナイフを一気に引き抜き、それを縦に一閃させる。高山の額が割れ、毒々しいほどの赤い血が大量に撒き散らされた。
それが雨のように深雪や赤神に降りかかる。工場の床も鉄骨の柱も、そして深雪と流星の二人も、ありとあらゆるものが真っ赤に染め上げられていく。
「あっが……ぶぁっ、ざっけんなよおぉぉぁぁぁ!」
ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しながら、高山は咆哮を上げた。
目を深海魚のように大きく見開き、狂ったように瞳孔全体を赤く光らせる。
風が轟と唸りをあげ、高山へと集中していった。工場の床に落ちていた鉄屑や空中を舞う埃が風に乗って高山へと流れていく。重い空気の塊がうねりを上げて、いくつも白い筋を作り、暴風と化した。まるで今にも襲い掛からんと、大気が舌なめずりをしているかのようだ。
しかし、高山の《ブラストウェーブ》がそれ以上発動することはなかった。
流星は冷静さを崩さず、引き金を引く。
銃口が火を噴き、頭部に二発、鎖骨と肩に一発ずつ――合計四発の弾丸が高山の体を貫いた。
四発の銃弾を続けざまに受けた高山は、呆気なくひっくり返って転倒すると、そのままピクリとも動かなくなった。
その死はあまりにも突然であり不自然ですらあった。
まるで騒々しい狂想曲ラプソディーがブツンと途切れたかのようだ。
深雪は呆然として、横倒しになったミリタリージャケットの背中を見つめる。
「………」
何も言えなかった。
突如、訪れた静寂がいやに耳に痛い。
流星が銃を下ろし、こちらに歩み寄って来て手を差し出した。
深雪は動かなくなった高山から目を離し、そのぼんやりとした視線を流星の掌へと向ける。見上げると、赤髪の《死刑執行人リーパー》はやはり、高山に手を下した時と同じ落ち着いた表情だった。
「……遅くなって悪かったな。大丈夫か? 怪我は?」
深雪はしかし、差し出された流星の右手をすぐには握り返すことができない。息すら止め、床に倒れたまま硬直していた。
数秒経ってようやく差し出された手の意味に気付き、身じろぎをする。
(――ああ、そうか。助けに……来てくれたのか……)
その時ようやく、自分が囮役を引き受けたことを思い出す。途中からそれどころでなくなってしまったが、流星の様子から見るに一定の役割は果たしたのだろう。
深雪は何とか身を起こし、流星の手を取ろうと左手を伸ばしかけた。すると流星の背後からシロが飛び出して来る。
シロは深雪が負傷していることに気付くと、ショックを受けたような表情をし、心配そうに抱きついてきた。
「ユキ!」
「シロ……」
「ごめんね、怖いことさせて……!」
深雪は「そんなことない」と、笑顔で応えようとしたが、途中で思わず脇腹の痛みに顔をしかめた。
シロは、はっとして深雪から体を離す。そしてその時初めて、腹部の刺し傷に気づいた。
「た……大変! 血が出てる!」
高山によって刺された傷から溢れ出した血は、衣服やコンクリの床をどす黒く染め上げていた。唇は青を通り越して黒くなり、目の下には隈ができている。
深雪にはすでにそれらの自覚も傷の感覚すらもなくなり始め、呼吸も弱々しくなっていた。
シロに「大丈夫だ」と答えようとして、それが言葉にならないうちに、更に意識が遠のいていく。
「ユキ⁉ しっかりして、ユキ!」
「マリア、車を手配してくれ! 深雪が負傷してる!」
シロが深雪へ必死に呼びかける声と、流星がマリアと連絡を取る声が、どこか遠い出来事のように聞こえてきた。
聴覚や視覚、感覚の全てに、膜を張ったみたいな違和感がある。しかし徐々に二人の声すらも聞こえなくなっていった。
(静かだな……俺以外、誰もいないみたいだ)
何だか馬鹿みたいにそんな事を考えていた。
それを最後に、深雪の意識は完全に暗闇へと沈んでいった。
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