183人が本棚に入れています
本棚に追加
「ねえねえ、ワインやビールってそんなに美味しいの? シロも飲んでみたーい!」
それまで黙ってにこにこしていたシロが、小首をかしげてそう言った。どうやら、それほど奈落とオリヴィエが真剣に奪い合うワインなるものがどういう味なのか、いたく興味を抱いたらしい。
「シロの分はこちらにありますよ」
そう言ってオリヴィエがさっと取り出したのは、ブドウジュースの炭酸だった。確かに色味はワインと似ている。しかし、さすがにそれでは誤魔化せないだろうと思っていたら、シロは予想に反し大喜びだった。
「わーい‼ シロのワインだぁ!」
どうやら、オリヴィエに差し出されたブドウジュースを本物のワインだと思い込んでいるらしい。深雪と海は顔を見合わせ、どちらからともなく微笑んだ。
「シロちゃん、かわいい……‼」
「確かに、癒される……!」
あまり笑うとシロに悪いと思いつつ、無邪気すぎる仕草に頬が緩んでしまう。深雪は込み上げる笑いを嚙み殺すのに苦労した。
隣に視線をやると、海もやはりくすくすと笑っている。最初に出会ったころにくらべると、かなり元気を取り戻した様子だ。深雪はそのことに、心底ほっとした。
「ところで……この事務所で働けることになったんだって?」
深雪がそう尋ねると、海は「はい」と嬉しそうに頷く。
「ホント、よく所長がオッケー出したよな」
「六道、事務員さんを雇うのはすごく慎重だったもんね」
流星とシロも感心したような表情で相槌を打った。海はその時のことを思い出したのか、わずかに俯き、小声になって言った。
「かなり厳しいことも言われました。身を守る術を持たない者は、必要ないとまで……」
「でもそれを説得したんだ?」
深雪が尋ねると、海は毅然(きぜん)として顔を上げる。
「私みたいな人間は、外にいても野垂れ死ぬだけです。どうせ死ぬのなら、自分に存在する意味を見出せる方を選びたいと……そう訴えたんです」
「あの所長相手に……すごいな」
深雪は素直に感想を漏らした。東雲六道がいかに手強い相手であるか、深雪は身をもって知っている。何せ、面と向かい合っただけで、震えが走るほどなのだ。説得するのがどれほど大変だったか、想像するにあまりあるほどだ。そしてあの六道が認めたのなら、海の決意は本物なのだろう。
マリアもぴょんぴょんと飛び跳ね、祝福するように海の周囲を飛び回る。
「いやーホント、海ちゃんにそんな度胸があるとは思わなかったわ」
「なんだか、いま思い返すと恥ずかしいです」
「照れることないわよー、誰かさんもこの調子でここに居ついてくれるといいんだけどな~」
そして目つきの悪いうさぎのマスコットは、深雪にちろりと意味ありげな視線を送って来るのだった。深雪はその意を察し、慌てて視線をそらすと話題を変える。
「うっ……そ、そう言えば神狼は? 姿が見えないけど……」
「ああ、もうすぐじゃねーかな?」
流星が笑いながら答えた、ちょうどその時。部屋の扉がズバンと派手な音を立て、勢いよく開いた。
「な……何事だ⁉」
台風でも上陸したかのような剣幕に深雪は飛び上がり、ぎょっとして扉に目を向ける。
「お、来た来た」
一方の流星は、上機嫌で右手に持った缶ビールをひらひらと振った。
そこには超絶不機嫌そうな神狼(シェンラン)が立っていた。いつもは黒いチャイナ服を着ているはずだが、今日は真っ黄色だ。目立ちさえすればいいという、いかにもなデザインは普段着というより、どこかのチェーン店のユニフォームを思わせた。両手には中華料理の盛られた大皿。その足元にも岡持ちが二つほど見える。
神狼は部屋の中をじろりと見渡し、大声で告知した。
「おい、龍々亭だゾ!」
「神狼……?」
どうしたんだ、その格好――そう言おうとして深雪はふと思い出す。
(そう言えば、神狼は中華料理店でバイトしてるってシロが言ってたっけ)
岡持ちや大皿の存在を考えても、その中華料理店――龍々亭の出前でここにきているのだろう。
しかし神狼の態度は、客商売にあるまじき傍若無人(ぼうじゃくぶじん)さだった。愛想もなければ、気遣いもない。遠慮会釈(えんりょえしゃく)なくずかずかと部屋に入ってくると、手に盛った料理を次々と並べていく。部屋中に、美味しそうなゴマ油や八角などの中華料理の香りが広がっていく。
「焼きギョーザとシューマイ、炒飯、四人前。八宝菜と回鍋肉二人前。……それと流星!」
「何よ?」
「ウチは本格中華の店ダ! 長崎皿うどんとか、注文するナ!」
「そう言いつつ、注文したら作ってくれんじゃーん」
見ると、大皿のひとつは皿うどんだ。パリパリに揚げた麺の上に、熱々の中華アンがこれでもかとかけてある。流星はホクホクした様子で割り箸を割ると、神狼に声をかけた。
「せっかくだから、お前も食ってけよ」
「だから、今は仕事中だと……」
渋る神狼に、すかさずオリヴィエが菓子の盛られた皿を差し出す。
「神狼、あなたの好きなフィナンシェも用意していますよ」
吊り上がった眉毛が、一瞬、垂れ下がるのが分かった。
「うっ……し、仕方ナイ。少しだけだゾ」
とか何とか口では言いつつも、すっかり菓子皿を独占し、幸せそうにフィナンシェを頬張っている。
「どうでもいいけど、何でいちいち俺様なんだよ?」
素直に食ってりゃいいのに、と深雪が呆れると、神狼はこちらを睨み、鋭いひと言を放った。
「ウルサイ、チビのクセに」
「はあ⁉ チビって……タッパ同じくらいだろ!」
深雪は猛然と反論する。ところが神狼は胸をそらせ、鼻を鳴らしたのだった。
「俺はまだ十四ダ!」
「それがどうし……って、え? 十四……? マジで⁉」
「マジだ。打ち止めのお前と違って、俺には未来がある。どうだ、羨ましいだロウ⁉」
神狼はやたらと得意げにふんぞり返る。小憎たらしいこと、この上ない。深雪が「ぐぬぬぬ」と歯ぎしりしていると、マリアが意地の悪い笑みを浮かべながら近寄ってきた。
「あらあ、背の低い男の子も、十分魅力的だと思うわよ~?」
「あーもう、どいつもこいつも、チビチビ言うなよ!」
深雪は平均と比べて、極端に背が低いわけではない。ただ、比較対象が悪いだけだ。奈落やオリヴィエはそもそも日本人ではないし、流星も日本人にしては背が高い。たまたまこの中で背が低い、というだけの話だ。
そう主張したのだが、神狼の反応はにべもない。「仕方ない、本当のコト……」と言いかけるが、その言葉はシロの上げた「ああー!」という歓声によって打ち切られてしまった。
何事かとシロの方へ視線を向けると、彼女は神狼の持ってきた料理にいたく感動している。
「杏仁豆腐がある! 神狼、ありがとう‼」
よほど好きなのか、シロは乳白色のプルプルしたゼリー状の菓子をスプーンですくい、はじける様な笑みを浮かべる。神狼は真夏の太陽のようなシロの笑顔を見て、頬を赤くした。
「べ、別に……ついでに持ってきただけダ」
乱暴な口調だったが、照れ隠しであるのは明らかだった。どうやら女の子は苦手らしい。深雪に対する態度とは大違いだ。腹立たしく思う一方で、何だ、普通の十代みたいな面もあるんじゃないかと、自分も十代なのを棚に上げて深雪は思ったのだった。
その間にも、勝手かつ強引に酒盛りは進む。
「ん、龍々亭のギョーザ、いつもと違わねえ?」
「是。それ、大葉入りギョーザ。マスター、今、新メニュー開発してる」
「新メニュー? 何だか面白そうですね」
「うちでも一番人気、それがギョーザ。焼きが人気だけど、水炊きもウマイ」
「フン。ギョーザなんて、ピロシキの紛いもんだろ」
「まあ、確かに似ていますね」
「否! ギョーザ、偉大なり! ギョーザを嗤うものは全て滅すべし!」
「んなこたいいから、焼きギョーザ寄越せ。仕方なく食ってやるからよ」
「やめろってお前ら。フォークとレンゲ、振り回すな!」
「シロはギョーザもピロシキも大好きだよ!」
もはや深雪の存在など、有って無きがごとしだった。深雪はだんだん突っ込むのもバカバカしくなってくる。窮状(きゅうじょう)を訴えたところで、どうせスルーされるか悪態(あくたい)を返されるだけなのだ。
「深雪さん、どこへ行くんですか?」
ベッドを脱出しにかかった深雪に、海が声をかけてくる。
「ああ、外の空気吸ってくるだけだから。琴原さんはゆっくりしてて」
傷の痛みも今日は随分治まっている。事務所の建物の中をぶらぶらするくらいなら問題はないだろう。シロも深雪の動きに気づいて手を差し出してきた。
「ユキ、一人で大丈夫?」
「大丈夫だよ」
深雪はシロに微笑んで見せると、ようやく部屋から抜け出したのだった。
最初のコメントを投稿しよう!