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第4話 ディアブロ
どれほど歩いただろうか。時計も端末も身に着けていないので時間がまったく分からない。ただ、ぶ厚い雲間から覗く日の光は、傾いて西日になりつつあった。
周囲の風景はますます荒んでいくばかりだ。アスファルトは裂け、道路には雑草が伸び放題になっている。電柱は傾き、コンビニのガラスは割られ、ビルやマンションの壁はひび割れたまま、もう何年も手入れがされていないのだろう。家屋にいたっては、もはや無傷のものを探すのが困難なくらいだ。
そんな廃墟の街をどこまでも進んだところで、耳の痛くなるような静寂のほかに、人の気配は皆無だった。
街並みの向こうに学校の校舎を見つけ、深雪はふと立ち止まる。周囲の建物がことごとく壊れているので、遠目でもその存在がよく分かる。通ったこともない知らない学校だが、何故だか無性に懐かしさを覚えた。災害があった時にはよく学校に避難しろと教えられた。そのせいだろうか。そこに行けば『誰か』いるような気がした。
もちろんその『誰か』がゴーストである可能性は高いし、それだけ危険も大きい。しかし、ここまで人の姿を目にしないと、どこか人恋しい気持ちもあった。
ただ、学校に行くためには細い路地に入らなければならない。
(いや……行ってみよう)
少し躊躇したものの、深雪は校舎に向かって歩き出した。その先を数メートル歩いたところで、二階建ての民家が横倒しになって行く手を塞いでいた。仕方ないのでさらに細い路地に入り、迂回することにする。車がようやく一台通れるほどの細い道だ。
ボロボロになったアスファルトの上には、細かく砕けたガラスや木片、屋根瓦のほかにも、さまざまな生活用品が散乱している。そんな細い路地を歩き続けると、ふいにポッカリと開けた場所に出た。
かつて雑居ビルやマンションが建っていたようだが、今は基礎しか残っていない。足元には大小の瓦礫が散乱しており、唯一、残ったコンクリートの土台からは錆びついた鉄筋がうねるように伸びている。まるで悪趣味な生け花のようだ。
その中にサッカーボールが落ちているのを見つけ、深雪は手に取った。
(そういえば……子供の頃、サッカーが流行ってたな)
深雪は懐かしさに包まれた。このボールにもきっと持ち主がいて、サッカーの練習をしたり友達と遊んだりしていたのだろう。その持ち主は、いったいどこに行ってしまったのか。
見たところ、ボールは長いことここに放置されているようだ。その証拠に白と黒の表面の皮はボロボロになって剥げかかっている。泥と埃にまみれ、色もすっかりくすんでいた。
「もう誰も……ボールを蹴る奴なんていないのかな」
深雪はぽつりとつぶやく。ここに誰かの生活があったという痕跡は確かに残っているのに、その肝心の『誰か』が見当たらない。
深雪のコートを風が薙いで揺らしていく。世界が崩壊して、自分だけが一人取り残されたような、乾いた虚無感に襲われた。
深雪はボールをそっと元あった場所に戻す。
(……とりあえず目的の校舎へ向かおう)
深雪が踵を返した、その時だった。周囲は変わらず静まり返っていたが、人が潜んでいる気配を―――誰かに見られているという視線をあちこちから感じる。
(ここは……まずい)
深雪は直感的に思った。それは本能による警告だったのかもしれないが、気付いた時にはすでに手遅れだった。
その場を離れようと歩き出したものの、すぐに物陰から出てきた複数の人影に囲まれてしまう。
「―――――……!」
深雪は立ち止まり、思わずフードを被った頭をうつむけて、相手から顔が見えないようにした。そして、じっと周囲の様子を探る。
深雪を取り囲んでいるのは、目つきの悪い若者たちだった。身なりは深雪とあまり変わらず、パーカーやジーンズなどラフなものばかりだ。背中を丸め、敵意を隠そうともせず、こちらを睨んでいる。いかにもゴロツキといった風体の、ガラの悪い連中だ。男ばかりと思いきや、中には女もいる。
(こいつらゴーストか……?)
深雪は内心ぎょっとした。もしそうであるなら、あまり良い状況とは言えない。ならず者の集団に囲まれるようなものだ。そうでなくとも深雪一人に対して相手は数十人と、多勢に無勢なのだ。何をされるか分かったものではない。
深雪は表情をピクリとも動かさず、若者たちの様子を窺いながら、静かに息を呑んだ。
「……」
若者たちも深雪を警戒しているらしく、決して不用意には近づこうとしない。ただ、狙った獲物は逃さないとばかりに深雪を取り囲み、じりじりとその輪を縮めてくる。
(どうする……?)
なるべく彼らを刺激することなく、この場を離れることができれば一番だ。だが若者たちは数が多く、このまま深雪を見逃してくれそうにはない。
いったいどうするのが最善なのか。慎重に相手の出方を探っていた深雪は、ふとその中に見覚えのある者たちがいるのに気づいた。
「は、離せよ! 俺達が何をしたって言うんだよ!!」
野球帽に濃いひげの男―――河原が若者たちに抗議の声を上げるものの、すぐに隣にいた若者に脇腹を殴られ、大人しくなる。ほかにも稲葉や田中、久藤など囚人護送船の雑居房で一緒だった面々の顔が見えた。おそらく無理矢理に連れて来られたのだろう。どの顔にも怯えや不安が色濃く浮かんでいる。
すると殺気立った若者たちの中から、いかにもリーダーといった風格の、禿頭の男が一歩進み出た。目元に妙な迫力があり、体格も図抜けて大きい。髪の毛をきれいに反り上げた側頭部には、半分が溶けかかった歪な髑髏の刺青が入っている。
間違いない。男がこのチームの頭だ。
深雪はフードの下から男を見据えた。少しでも隙を見せれば、たちまち襲いかかってくるだろう。背中にじっとりと冷たい汗が伝ってゆく。
頭と思しき禿頭の男はニヤリと口元を歪ませると、横柄に口を開いた。
「おい、お前。持ってるんだろ」
「……何のことだ?」
深雪がそう答えると、禿頭の男は背後にいる手下の男にあごをしゃくった。
すると手下は怯えきった元公務員―――田中の背中を小突いた。気の弱い田中は飛び上がり、ガクガクと震えだす。そして深雪を指差し、うわ擦った声で答えた。
「ぼ……僕、見ちゃったんです。彼、大手銀行のカードと通帳、確かに持ってましたよ。ちらっとだけですけど……た、確かに見ました!」
田中はギュッと目を瞑り、その指先は細かく震えていた。禿頭の男は深雪に視線を戻し、ニヤリと頬を歪める。
深雪はポケットの中の封筒をぎゅっと握りしめた。奴らの狙いは『これ』なのだ。まさか彼らも通帳の預金額が一千万もあるとは知りもしないだろう。ただ、河原や田中たち四人から深雪がお金を持っているとの情報を得て、奪い取ってやりたくなったのだろう。
「……そんなに金が欲しいのか?」
深雪の言葉に男達は下卑た笑いを上げた。そこには嘲りの響きがあった。
「……ぜんぶ置いていけよ、間抜け野郎。さすがにカネよりは命のほうが大事だろう?」
禿頭の男はそう言うと、鋭い視線を深雪に留めたまま大仰な仕草で両手を掲げる。そして、ちょうど右隣にいた田中の顔面を逆手に掴んだまま、両眼の瞳孔の縁に赤い光を瞬かせる。
次の瞬間、田中の体が凍りついたように動かなくなる。そして男が掌に力を込めたかと思うと、田中の体は粉々に砕け散ってしまった。
すべてが一瞬の出来事だった。
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