始章

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 ――はるか昔。  それ(・・)はひとり、震えて『彼』が自らのもとへもやって来るのを怖れていた。  それは、人の姿をしていた。  いくらかの幼さと大人への片鱗を共に(にじ)ませた娘に見えた。  だが、ただの娘が着物を乱してただひとり、山の奥で座り込んでいるのは奇妙な図でもある。男どもに襲われ、誰も通らぬような山中に捨てられたか――そんな雰囲気ではない。衣服の乱れも逃げまどっている内にできたもので、そこを気に留めている余裕もない、そういう印象だ。  疲労したか観念したかでこの場にへたっているのか。  伸びた髪を無造作に束ね、質素な衣で痩せた躰を包む姿に男を誘う気配はない。年頃の娘の愛嬌や艶っぽい色香とは無縁な容貌をしている。整った顔つきをしてはいるが、可愛らしさは薄い。  それがいるのは、山だった。  霊験を感じる勇壮な山だ。  彼女から離れた少し遠く、木々の間から悲鳴のような怒号のような、人外のものの声が伝わってきて、彼女の(からだ)がぴくっ、と跳ねる。  夜だった。
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