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「ハッ、くれぐれもデート中に思い出さないように。恥かいちゃうから忠告しといてやる」
彼が怒りと恥じらいでフルフル震え出すのを見て、心底楽しいと思った。
思いきり大声で笑い飛ばしてやりたい。指をさして、お腹を抱えて笑ってやりたい。
身を離して、個室のドアを開ける。男子トイレはどこも閑散としていておもしろくない。不意に開いたドアのなかに、便器の数にあわない男ふたり、それが見つからない確率の高さったらない。つまんねえの。
「じゃあね」
個室の壁に張りついたまま微動だにしない相手に告げて、オレはわざと大きな音を立ててうがいをし、汚れていない自分を鏡でしっかり確認すると、トイレを後にした。
飛び出して戻った先はもうまるで別世界で、穏やかで温かくて、いまのいままでオレがしていた行為なんてまるで嘘だったのだと、まやかしだったのだと言わんばかりだ。
買い物客が笑顔で通りすぎる。仲良く会話しながら過ぎゆく親子連れ、その子供の手にはハート型の風船が大事そうに握られている。いかにも平和で、どこかノスタルジックな光景。いまのオレにはまぶしすぎて、とてもじゃないが直視できやしない。
それでも顎に残る倦怠感や口中に残る彼の味は拭いようもなくて、それはあとからあとからオレの首を緩やかに絞めつけてゆく。
ああ、呪いだ。
癒されたい。けれどきっとあいつでは癒しきれない。
オレはどこに向かうのだろう。
なにが正解?
もうなにも見えない。
すべてが泥に埋まってもがいている。
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