序章

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 あいにくと小毬は携帯電話なるものを持っていないので、救急車を呼ぶには一番近くの民家まで降りていき、電話を貸してもらうしかない。途中ですれ違うかもしれない農家の人に携帯電話を借りるという手もある。  立ち上がった小毬が、踵を返した瞬間。 抗えないほどの力で後ろに引っ張られ、たたらを踏んでそのまま後方に転んだ。掴まれた腕がじんじんと痺れるほどに痛み、顔をしかめる。 「やめろ」  低い、バリトンボイスが耳に届く。  振り返ると、青年の翡翠色の瞳が小毬を射抜いた。恐怖から、そして驚きから、小毬はびくりと身体を震わせる。 「誰も呼ぶな。……誰も」  鬼気迫るものを感じて、とっさに頷いた。  何度も、何度も。 「呼ばない。わかりましたから」  だから、手を放して。そう告げる前に、頑なに掴まれたと思っていた手が離れた。青年は億劫そうに手をおろし、痛みに堪えるような表情で目を閉じる。  小毬はそろそろと四つん這いになり、青年を見下ろす。人は呼ばないでほしいという。けれど、怪我を負っているのは確かなようだ。  このまま何も見なかったふりをして、帰るという手もある。  だが、この綺麗な色をした瞳が暗く濁っていくさまを想像すると、腹の底に泥が溜まったような不快感を覚えてしまうのはなぜだろうか。     
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