2.さがしもの

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2.さがしもの

 三階建ての校舎は、どこを切り取っても必ずどこかに角がある。じめりとした不快な季節に突入する前に逃げ切ってしまおうという魂胆でもあるのか、桜がすっかり花を落としきったこの時期に、校舎スケッチの授業が行われた。科目はもちろん、美術だ。二時間という、たっぷり取られた時間。担当教諭はしきりに「皆さんにとって、今年が最後の校舎です。中学校生活三年間の日々に感謝して、校舎を描きましょう。皆さんにスケッチしてもらえることで、校舎も喜び、輝きます。それがまた、後輩のためにもなるのです」と繰り返すが、そんな強要はひとつも伽音の心には響かなかった。まだ、「受験前の息抜きとして、気楽にスケッチでもしましょうか」と言われた方が、幾分か気持ちが楽だったと思う。 「伽音っ、伽音!」  校舎を見つめ続けても特別愛着の持てるような構図を見つけられないばかりか、特別な感情すら湧いてこずに構図を決めかねていた。そんな伽音の隣に、動物が飛び跳ねるように亜梨沙が座った。  亜梨沙とは、一年生のときに同じクラスになったのが縁で親しくするようになった。明るくさっぱりした性格の亜梨沙と一緒にいると、自分の気持ちも朗らかになる。二年生でクラスが分かれてしまったとき、「伽音と同じじゃないなんてつまんない」と涙目になる亜梨沙を慰めるのは伽音の方だったが、実は内心、伽音の方がずっと寂しかったし不安でもあった。亜梨沙と仲良くしたい子は、きっといっぱいいる。だからクラスが離れたことで、亜梨沙の気持ちも自分から離れてしまったらどうしよう。伽音にとっては、亜梨沙が初めてとても照れくさい言葉を使える相手だった。「親友」と、すごく恥ずかしくてでも、亜梨沙や周りに言われる度に嬉しくなって、誇らしくなるような気持ちをくれたのは、亜梨沙が初めてだ。  三年生で再び同じクラスになり、手を取り合って大喜びした。「いよいよ受験だね」と言いながら、伽音の顔も亜梨沙の顔も、嬉しさで満ちていた。 「ん? なに、亜梨沙」 「高校さ、藤ヶ丘学園高等部にしない?」  唐突な言葉だった。けれど当然三年生になれば、自ずと受験への意識は高まる。「志望校」という言葉をはっきりと認識したのは、間違いなく三年生一学期最初の日、始業式後のホームルームで担任から年間行事説明があったときだ。  しかし、伽音はまだ、そこまで明確に志望校を決めているわけではなかった。頭の中にいくつかの高校の名前はあるが、その程度だ。何故なら、季節はまだ、春といって間違いなかった。気候は暖かで、蝶々がふよふよ飛んでいる。桜があっという間に散ってしまっても、五月頭の大型連休が坂を転げるスピードで終わってしまっても、梅雨の空気がすぐそこに見え隠れしていても、間違いなくまだ春だ。 「藤ヶ丘学園高等部、って、あのすごく偏差値高いとこ? スポーツ推薦じゃなきゃ入れないって言われてるとこだよね? む、無理だよそんなとこ!」 「大丈夫、大丈夫。だってあたしら、偏差値結構高めだと思うの。余裕で合格とは言えないけどさ、絶対、頑張れば大丈夫っ」 「だ、だってさあ。でも……お嬢さま学校じゃんか。そんなところ、浮いちゃうよ。まあ、亜梨沙が一緒だったら心強いけどさ……」 「んっふっふー。それがね、今先生に聞いたらね、お嬢さま学校じゃないみたいよ?」 「え、うそ。そんなはずないじゃん。だってあんなに立派な時計台があるのに。てかさ、いつの間にそんな情報仕入れたの?」  藤ヶ丘学園の時計台は、この街では有名だった。どこから見ても綺麗なその時計台に憧れて、藤ヶ丘学園を受験する女子は少なくない。けれど藤ヶ丘学園は凡人には手の届かない、竜宮城のようなところだった。実際に行ったことがある、在学生だ、という子を探すのが何故かとても難しく、それ故お嬢さましかいなくて受かってもいじめられる、馴染めないまま転校してしまう子が多い、登下校は必ず、車で送り迎えしてもらわなければいけない、など、不吉な噂だけが受験生の間で一人歩きしているのが現状だ。 「緒方先生がね、卒業生なんだって」  そう言って亜梨沙が指さしたのが、美術担当の緒方だった。伽音は先程までの熱弁を思い出してしまい、少し嫌な気分になって眉を顰める。 「ね、伽音。あたし、伽音と一緒の高校行きたいもん。楽しい高校生になりたい。そしたらさ、少しでも素敵な高校行きたいじゃん。それに、絶対、似合うよ伽音。藤ヶ丘学園の制服!」  力説する亜梨沙の目は、確かに輝いている。スケッチブックの開いたページは、まだお互い真っ白だった。  志望校は、なるべく早く決めなさい。その方が効率よく勉強できる。そう言う先生も確かにいるし、目標を持っていれば勉強にやる気が出るかもしれない。伽音も、亜梨沙と同じ高校に行きたいと思っているのは間違いないし、亜梨沙と一緒だと勉強も絶対頑張れる。特別入学したい高校が、あるわけじゃない。それなら亜梨沙と一緒に、同じ目標を持って頑張ってみようか。真っ白なスケッチブックに、その未来を想像してみる。亜梨沙と一緒の高校生活はどんなに想像しても楽しさにしか溢れていない。自分の努力でその未来が確実に実現するのなら、頑張りたいし頑張れる。 「わかった。一緒に、藤ヶ丘受けよう」 「ほんとっ? やったあ!」  飛び上った亜梨沙の膝から、スケッチブックが落ちた。一緒にペンケースも転がり、中身が飛び出す。飛び跳ねる亜梨沙に合わせて、低い位置で二つに結われた髪も揺れる。先生にこつんと頭を小突かれても、亜梨沙はとても嬉しそうだった。少し大人びて見えるのに、亜梨沙は少しだけ夢見がちでその分とても純粋だった。一年生のときに、亜梨沙が好きになった先輩は爽やか系でクラスでも人気が高かった。けれどその先輩が、上履きを履き潰しているのを見てしまい、亜梨沙はいっぺんで「思ってたのと違う」と言って、先輩が好きではなくなった。そんな亜梨沙を知ると、「子どもっぽい」と笑う子や「お子様だ」と馬鹿にする子もいる。でも、伽音はそれが亜梨沙の魅力だと思っているし、そんな亜梨沙を確実に好いていたし、憧れてもいた。羨ましくもあった。  季節は当たり前のように流れていき、夏休み前は「もっと頑張れよー」と伽音と亜梨沙の頭を突いた担任も、秋が終わるころには「この調子でいけば合格間違いなし」と太鼓判を押してくれた。受験日の十日前に亜梨沙が風邪をひいてしまい、伽音はとても心配したが、亜梨沙は三日で完治させた。しかしまだ本調子ではなかったのか、受験日の亜梨沙は言葉数が少なく、元気がなかった。  高校の合格発表は一律で、卒業式の翌日と決められていた。伽音は自分のこと以上に亜梨沙の合否が気になり、落ち着かない毎日が続いた。  卒業式が終わるとクラスでお別れ会があった。教室で写真を撮ったりアルバムに寄せ書きを書きあったりしてそれぞれが感傷に浸り、翌日を見つめたくなくて誰かが言った「最後に皆でご飯食べに行こう」という言葉に全員が賛成していたが、亜梨沙と伽音は場の雰囲気に乗じてそこを抜け出し、カラオケに向かった。  夏に二人してハマり、受験勉強中も聴いていたダンスグループの歌をテンポよく歌うと、気分もすごく盛り上がった。明日を見つめたくないのは伽音も同じで、恐らくそれは亜梨沙だって同じに違いない。亜梨沙はすっかり元気を取り戻しているが、受験日に本調子でなかった分、亜梨沙の方が不安を抱えていて当然だった。 「ねえ、伽音」  オレンジジュースを飲み干した亜梨沙がマイクを置き、伽音に向けて笑う。油っぽいフライドポテトを頬張りながら、伽音は亜梨沙を見る。 「あたし、多分藤ヶ丘落ちてる」  今日の伽音にとって、いや亜梨沙にとっても確実に、重い言葉だった。これが伽音の方だったら、亜梨沙はきっと「頑張ったんだもん、大丈夫。明日を信じよう?」と励ましてくれただろう。だが、伽音にも思い当たる節があるぶん、「そんなことない」「大丈夫だよ」という軽い言葉が出てこない。受験が終わって、「絶対、落ちてる」と人前で口にする子は多かった。しかし、その大抵が「そんなことないよ」「大丈夫だよ」を期待した言葉で、そういう子にならいくらでも言えた。けれど、今は違う。はっきり伽音にわかるから、すぐに言葉が出てこない。 「あたし、亜梨沙と藤ヶ丘通うの、楽しみにしてるよ? 一緒に、通いたいもん。だから……」  だから、なんだと言うのだろう。だから明日を信じよう? だからそんな気弱にならないで? 亜梨沙が欲している言葉を、自分は与えることができるのか。今まで亜梨沙が伽音にしてくれていたそれを、自分は亜梨沙にできるのか。しかし、今やらなくて、どうするのだろう。  伽音はたくさんの言葉を飲み込み、それでもまだ言葉を探した。部屋には、カラオケメーカーの宣伝が繰り返し流れていた。重量を持たない軽い空気ばかりが画面の向こう側で回っていく。それに同調するように時折、部屋の外から騒がしい声が巻き起こり、伽音のことを圧迫する。伽音はどこも見ることができずに俯き、スカートをきつく握り込む。 「ううん、違うの」  そんな伽音を解くように発せられた亜梨沙の言葉はとても落ち着いていて、伽音の耳を心地よく撫ぜた。 「数学と社会、ほとんど白紙で出したから」 「え……?」  伽音と亜梨沙の得意不得意科目は対照的だった。伽音は数学、社会が得意で、国語、理科が苦手。亜梨沙はその逆だ。英語はふたりともそこそこで、勉強中によく「将来はそこそこの英語で、ふたりで外国に住もう」と冗談を言い合った。そんなふたりを見た担任が、「まあ、個人としてはどっちにも転べるからバランス取れてるよ」とよく励ましてくれた。  確かに、亜梨沙は数学と社会が苦手だった。けれど、白紙で出さなければいけないほど難解なテストではなかった。偏差値の高さに比例して、当然テストも易しいものではなかったことは、伽音も理解している。しかし、伽音が不得意の国語、理科、同様数学も社会も、亜梨沙が頭を悩ませて考えても答えられない問題ばかり、並んでいたとは思えない。  伽音が顔を上げて亜梨沙を見ると、亜梨沙は何故か、眉を下げて笑った。 「もしそれで受かってても、あたしは藤ヶ丘に行けないの。年末くらいにね、お父さんが転勤になるかもしれないって聞かされて。受験前に、決まったってお母さんから言われた。家族で、ついてくの。お父さんの海外転勤」  それはどういうことなんだろう。それが最初に思ったことだった。なにか言わないと、訊かないと、そんなことも伽音は考えられずにいた。随分間抜けな顔で恐らく亜梨沙を見つめていただろうことは、今も安易に予想できる。ただ、亜梨沙は申し訳なさそうに「ごめんね、伽音」と呟くと、また、笑った。 「ジュース、取ってこようかな。たくさん歌うと喉渇くよねー。あ、伽音のグラスも減ってるじゃん。またメロンソーダでい?」 「うん」  反射でした返事を亜梨沙が受けて、席を立つ。亜梨沙が部屋のドアを開けると、一気に外の喧騒が部屋に充満した。亜梨沙の姿が廊下に消えて、部屋のドアが閉まると、喧騒は再びくぐもった雑音になる。  なんでだろう。どうしてだろう。その理由なら今、亜梨沙に説明された。父親の海外転勤についていく。だから藤ヶ丘には行けない。けれどそれでも伽音にはわからない。なんで亜梨沙は藤ヶ丘に行けないんだろう。どうして、海外転勤についていかなきゃいけないんだろう。なんで言ってくれなかったんだろう。どうして亜梨沙は平気なんだろう。なんで亜梨沙は海外なんかに行けるんだろう。どうして亜梨沙は、笑っているんだろう。  亜梨沙がいない部屋で一人、誰にも訊ねられない言葉が伽音を埋め尽くす。画面の向こう側、軽やかなリズムとテンポ、笑い声が当然のように部屋を侵略していく。それらが伽音の体を触り、跳ねる。肩に乗り、手首に向かって楽しげに移動する。今まで気にしたこともなかったそれが、何故かとても痛い。刺さるほどに凶暴でもないはずなのに、今は触ってほしくない。  いつの間にか、手の甲が濡れていた。泣いているんだと自覚した途端、堰を切ったように涙が溢れてくる。  わからないことばかり。訊けないことばかり。でも、変わらないことはただひとつなのだと、伽音は気がついた。  亜梨沙とは、一緒に高校生になれない。  きっと亜梨沙はそう決めてしまった。だから伽音が、今更嫌だと駄々をこねたところで変わることはなにひとつない。亜梨沙のことを困らせて、重たい荷物を残すだけだ。  けれど、どうしても受け入れられない。亜梨沙と一緒に藤ヶ丘に通うことを、心待ちにしていた。寒さが厳しく、雪が降り始めたころからは何故か、一緒に受かる自信しか持てなかった。受験ハイというやつだったのかもしれない。  亜梨沙とふたりで、笑っている未来しか伽音の中にはなかった。そのための努力もしたし、怠けたつもりは毛頭ない。けれど、どうにもならないのだ。  寂しい、悲しい、そして悔しい。  亜梨沙が自分の隣からいなくなることよりもっと、亜梨沙がその選択をしてしまったこと。その選択を自分の中で善とし、受け入れて消化してしまったこと。  頭では、伽音もわかっているつもりだ。どんなに足掻いても喚いても、自分たちは所詮未成年の中学生で、「親と離れて暮らしたい」と思っても、それは子どもじみた幼い我が儘でしかないこと。周囲を困惑させるだけの、自分勝手な気持ちでしかないということ。そしてなにより、「親友と同じ高校に通いたい」と押し通すことは、「親の海外転勤についていくこと」よりも当然蔑ろにされるべきことで、比較にならないほど悪だということ。友達と離れたくないという理由は、理由にもならない只の情だということ。そして、亜梨沙が家族を想い、家族も亜梨沙を想っているからこそ、これは言うまでもなく当たり前の選択だということ。  オレンジジュースとメロンソーダを手に戻ってきた亜梨沙が、慌てて伽音の隣に寄り添うように座り、伽音の頭や手を撫でる。その手は伽音に触れて張り付いていたすべてを取り払ってくれてもいるようで、どこかで安堵し、気持ちが静かになっていく。結局伽音が泣き止んだタイミングで、そのままカラオケ店から出ることになった。翌日に合格発表が控えていることもまた、変わらないことだ。伽音はそのあと、一言も喋ることができなかったが、亜梨沙は別れ際、伽音に「じゃあ、またね。伽音」と言って自分の家に帰って行った。  翌日の合格発表に、伽音は一人で向かった。正直、合否なんてものはもうどうでもよかった。亜梨沙と一緒に通えないなら、学校なんてどこも同じだ。けれど、自分が通う学校を把握しておかなければ、四月を迎えることができない。いや、四月を迎えることはできるが、自分の所属をはっきりさせないことは、まだ十五歳の伽音にとって春を迎えないことと同じだ。  前に来たときは、緊張で別世界のように見えた坂。次に来るときもまた別の緊張が襲うだろうけど、ある種の高揚も混じっているのだろうと思っていた。もちろん、隣の亜梨沙と一緒に。まさかこんな、絶望とも無気力とも言えるような、言えないような気持ちで歩くとは思ってもみなかった。  坂を上りきると正門が見えてくる。とても立派なその正門は、やはりお金持ちの御嬢様学校のものに思えてしまう。その門のところに、見知った出で立ちを発見する。 「あ、伽音! おはよう」 「亜梨沙……」  思わず小走りになり、駆け寄ってしまう。亜梨沙は伽音と同じように、中学校の制服を着ていた。昨日会った亜梨沙と、なんら変わったところはない。 「どうして……? 来ないと、思ってたよ……」  そう思ったから、伽音は藤ヶ丘に一人でやってきた。合格してもしていなくても、亜梨沙は藤ヶ丘に通わない。それならば、合否を確認する必要もないからだ。 「なんで? だって、今日は合格発表なのに」 「だって亜梨沙、引っ越すんでしょう?」 「あたしの、じゃなくて。伽音の! 合格発表じゃん!」  亜梨沙が至極当然のようにそう言う。掲示板の前には、すでに人だかりができているのがはっきりとわかる。伽音が迷うように、言葉を探すように、目を彷徨わせる。 「行こう。伽音の合格発表。絶対、受かってるよ!」  亜梨沙が伽音の手を握り、掲示板を指さす。ぐん、と伽音を引っ張った手は、確かに亜梨沙のものだった。  掲示板の前は、意外に静かだった。よくニュースなどで、掲示板の前で泣き叫んだり飛び跳ねたりする光景が流れていたから、てっきりそういうものだと思っていた。  しかし、多くの人がただ淡々と自分の番号だけを探して目を凝らしている。番号がなかった者は静かにその場を離れていき、発見した者は写真に収める姿が見受けられる。歓声に似た声が湧きあがっているのは、少し離れた場所だった。 「うー、伽音ー、伽音ー」  亜梨沙が念を飛ばすように、掲示板を睨んでいる。伽音も同じように番号を追おうとして、自分の番号を忘れていることに気づく。ポケットに入れた受験票を取り出しながら、亜梨沙はわかっているのだろうかと思う。 「あっ! あったよ。0673!」 「え?」  そう言われても、それが自分の番号なのかわからない。慌てて受験票を見ると、そこにはしっかり、0673という数字が印字されている。 「うそ……」  自分でも、受験票を見て、掲示板を見る。そこには間違いなく、両方に、伽音の受験番号である0673が載っている。 「やった、伽音! 合格だよ、合格っ」  亜梨沙が突然伽音に抱きつくものだから、周りの受験者が訝しがって怪訝そうに伽音たちを見た。その雰囲気に居たたまれなくなったのは伽音の方で、高揚している亜梨沙を掲示板前から引っ張り出す。 「伽音、藤ヶ丘だよ、藤ヶ丘! 憧れの藤ヶ丘だよーっ」 「よ、よく、覚えてたね。あたしの番号」 「ん、んー。今思えばそうだね? 自分の番号、覚えてないけど」  からからと、亜梨沙が笑う。実感が沸かないまま、伽音は亜梨沙に抱きつかれていた。  亜梨沙がはしゃいでいる中で、伽音は受験票をもう一度覗き込む。自分の名前の隣に、しっかりと印字された番号。愛着などなにもないその数字をじっと見つめ続けても、やはりどこか実感が沸かない。伽音にとって、亜梨沙が自分のことのように喜んでいるのが唯一の救いだった。  亜梨沙も一応、自分の番号の確認をしたが、やはりというか当然というか、亜梨沙の番号は掲示板に記載されていなかった。亜梨沙は自分の受験票を見ながら「あたしの前後十番、全部落っこちてる」と、悪戯を企む幼子のような声で伽音に耳打ちした。亜梨沙が持った受験票を横目で見て、もう一度掲示板を見る。しかしやはり、亜梨沙の番号はない。つい、伽音はきょろりと辺りを確認してしまう。しかし、こちらを見つめる視線など見当たらない。  随分期待していたのだと、伽音は更に落ち込んだ。  もしかしたら、合格しているかもしれない。試験の成績が悪くても、内申との総合点で判断されるということは、励ましの言葉として散々浴びてきた。教師が発するその言葉には決まって「だから生活態度を」「普段の行いを」という戒めが付随したけれど、そんなことを言われなくても亜梨沙は十分内申点がよかっただろうし、周りがどんなにその脅迫に怯えていても、あっけらかんとしているのが亜梨沙だ。伽音から見て、間違いなく亜梨沙は内申点が良い生徒だった。それは欲目などでは決してなく、伽音自身の正確な推論だった。だから、期待していた。内申点で、随分カバーできるのでは、と。  しかし、受験はそんなに甘くないと、掲示板は言っている。そして、校舎も藤ヶ丘の教師も、皆、そう言っている。何故なら、亜梨沙に近づいてこようとする大人は一人もいない。「きみ、答案が白紙に近かったけど、なにか事情でもあったの?」と、亜梨沙を慮って合格を検討しようという動きは、一切見受けられない。  改めて掲示板を見つめる。どんなに目を凝らしても、亜梨沙の番号は浮かび上がってこない。  気づけば、日が暮れようとしていた。浮かない顔の伽音とは対照に、亜梨沙は随分すっきりとした顔をして、伽音に笑いかける。 「ねえ伽音。時計台、登って帰ろっか」 「時計台?」 「うん、ほら。あたし、一回登ってみたかったんだ。ほんとは入学式に、伽音と登る予定でいたんだけど」  後ろにそびえ立つ時計台を指しながら、亜梨沙は言った。入学式、という言葉に、伽音の胸がまた無意識に痛む。 「うん、そうだね。あたしも、亜梨沙と一回登りたいな」  その言葉は本心だった。けれど伽音のその気持ちは、恐らく亜梨沙のように純粋で綺麗なものではなかった。亜梨沙が抱いているような、憧れの建物に、親友と一緒に登りたい、思い出がほしい、というような、美しい感情ではない。もっと、濁っている黒い、言い表すならば亜梨沙に藤ヶ丘を刻みたい、なにかひとつでも痕跡を残したい、と、絡みついて拭いきれないような、粘度のある感情だった。藤ヶ丘に、ひとつでも亜梨沙との思い出があれば頑張れる、それに支えられる、という模範解答も出来ず、しかし自分自身に期待する。亜梨沙がいなくても、そういう正しい感情を持てるのではないか。頑張れるのではないか。だが、現在の伽音にその感情が根付いていないのに、これから芽生えるはずもない。  藤ヶ丘学園の時計台は、この街に住む者なら誰もが必ず目にしたことがある。高台にある藤ヶ丘学園に聳える時計台は、街のどこにいても確認できた。しかし、伽音も亜梨沙も、実際登ってみるのは初めてだった。けれど、それは決して珍しいことではないのも事実だった。藤ヶ丘学園の時計台は、毎日、朝九時、正午、夕方六時にその存在を誇示するため、街のシンボルであることは確かだった。この街の人間に、確実に時計台は根付いていた。可笑しな話ではあるのかもしれないが、それほどまで住人に横たわる存在であったのに、実際に登ってみたことがあるという人間は、ほとんどいなかった。伽音も亜梨沙も、これまで登ったことのある人間に、出会ったことはない。そして今、実際に登ってみて、その理由を二人してなんとなく察してしまっている。  時計台は、高校校舎を更に進んだ場所にあり、敷地内の外れまで足を運ばなくてはいけなかった。時計台の裏側に回ると、ドーム型の入口から、中を螺旋に廻る階段が見える。上から光が差しているせいか、暗い印象はなかった。  亜梨沙に続いて伽音が、階段に一歩、足をかける。螺旋階段というものに上がったのは、これまた二人とも初めてだった。足を進めても進めても、ちっとも登っているように感じられない。螺旋状のそれは、目を回らせないようにするのが精一杯で頭の芯がぼぅっとしてくる。気がつけば亜梨沙も伽音も、だいぶ息を上がらせていた。 「運動、不足だね」 「うん……。受験で、体育の授業も、減っちゃってたし」 「でも、ね」 「うん」  伽音は、亜梨沙の問いかけに同意を示す頷きを返した。螺旋階段を登りきり、展望台に上がったころには二人とも、すっかり息も絶え絶えで、百メートルの徒競走タイムを計り終えた後のように息を弾ませる。展望台、というのは随分誇大された表現で、実際は亜梨沙と伽音が並んで立てばスペースはほとんど残らず、精々二人、腰を下ろせるくらいだ。けれどそんなことは、登った達成感によって帳消しにされた。時計台から眺めた風景は、亜梨沙と伽音が、初めて見る景色だった。生まれ育った街の、全貌。 「夜に来たら、すごく綺麗かも」 「でも、夜に今の階段、登る勇気はないかな」 「あははっ。それは確かに。あ、ほら見て伽音。あれ、うちの中学じゃない?」  亜梨沙が指さす先には、確かに中学校の姿が見える。校舎の形、グラウンドの配置。毎日通っていた場所なのに、初めて知る情報ばかりが伽音の記憶にインプットされていく。グラウンドの淵に添うように植えられた針葉樹に、なんの意味があるのだろうと伽音はいつも不思議に思っていた。しかし、この時計台から見てみると、グラウンドを囲うように並ぶ針葉樹がすごく綺麗で、目立つ。暮れかかった空のせいで、そこに浮かんでいるように見えるせいか、何故だかすごく、神秘的な建物のように見えた。 「なんか、今までのことが、夢の世界の話だったみたいだね」  亜梨沙も、風景を見下ろしながら伽音と同じようなことを考えていたのか、ぽつりとそんな感想を漏らす。 「今のあたしたちが現実でさ。あの校舎で過ごした毎日は、違う世界の話だったみたい。それで、そこでの話はもう終わっちゃったから、あたしたちは夢の世界から出なきゃいけなくなっちゃったの」 「そう、なのかもね」  亜梨沙は、大人びて見えて少し夢見がちで、その分すごく純粋だった。そして同じだけ、傷つきやすかった。伽音はそんな亜梨沙を確実に好いていたし、羨ましかったし、誇らしかった。  亜梨沙の長くて綺麗な髪の毛が風に靡いて、亜梨沙の横顔を隠す。亜梨沙が宥めるように髪の毛を押さえるとまた亜梨沙の表情が見て取れて、伽音の心も凪いで行く。 「あたし、すごく悔しかったよ。伽音と一緒に、藤ヶ丘行けないってわかったとき」  そう言う亜梨沙は、やはり笑っていた。けれど、今笑っている亜梨沙は、確かに寂しそうに見える。伽音には、それがわかる。 「なんで、って思った。勝手に決めないでって思ったし、絶対行きたくないって反発した。でもね、うち、弟がいるじゃない? まあ、まだ小学生なんだけどさ。いじめられてるわけじゃないんだけど、学校が肌に合わないっていうか、友達が合わないっていうか、苦手でさ、学校。中学は私立受けようかって話、でてたの。あ、転勤が決まる前ね?」  亜梨沙に弟がいることは、もちろん伽音も知っていた。何度か会ったことはあるが、顔を認識している程度で、特別何度も話したことがあるわけではなかった。けれど、会っただけの印象から言えば、亜梨沙と同じく活発で、利発そうな男の子だった。まさか、学校を嫌がっているなどとは微塵も想像できない、クラスのリーダーで、休み時間には真っ先にサッカーボールを手にして集合をかける、そんな印象を抱く男の子だった。 「だからさ、弟は、行きたいんだろうなってすぐに思って。でもね、なんにも言わないの。親もね、最初は『家族全員で行きたい』って言ってたけど、話が本決まりって感じになるにつれて、好きなようにしたらいいって、任せてくれて。そしたらさ、急に申し訳なくなっちゃうんだから、あたしも大概、自分勝手っていうか、我が儘っていうか……」  亜梨沙は、伽音の方を見なかった。伽音は、亜梨沙の横顔ばかりをじっと見つめ続けた。呟くようにごめんね、と笑った亜梨沙はやはり寂しそうに見えたが、亜梨沙がごめんと口にする度、伽音の胸が刃物で突かれたように痛んだ。傷ついていたのだと、随分後から冷静になってやっと理解した。亜梨沙が口にする「ごめん」は、両親に向けたものでも弟に向けたものでもない。確実に、伽音に向けたものだった。  伽音は相槌すら打てずに、亜梨沙の横顔を見つめる。時折目を伏せて、髪は相変わらず宥めるように押さえている。睫毛が少し震えている。亜梨沙の睫毛はとても長くて、すごく綺麗に生え揃っていた。気づいたのは随分前だが、ビューラーで持ち上げているわけでもないのに少しだけ上向きになっていることを、伽音は今、初めて知った。 「あたしの知らない間に、結構親は、頑張って動いてくれてたんだって知ったのは、本当に、受験の直前。あたしが留学しても、不自由なく過ごせる学校とか、環境とか、すごく調べて、整えてくれてたみたいで。それでね、これは親にもほんと内緒なんだけど、弟がお母さんにさ、『僕は多分、どこでも楽しめるから』って言ってるの、聞いちゃって。お母さんもさ、多分何度も言われてたんだろうね。はいはいって感じで、笑ってるの。あたしね、恥ずかしいけど泣いちゃったんだ。お母さんも弟も、もちろんお父さんもさ、あたしのこと、こんなに愛してくれてさ。考えてみたら、いつ帰ってこれるかわからない転勤に、家族全員で行きたいって気持ちなんて、当たり前でさ。こんな人たちをあたし、裏切っちゃうのかなって。それで、決めたの。ついてくって。でも、心の奥底じゃ、まだ完全に納得しきれてなかったのか、風邪ひいちゃったんだけど」  時計台は高台にあって、街を見渡せるくらい長く伸びている。そのせいなのか、風がとても冷たかった。伽音の、顎のラインで切り揃えられたボブ丈は、伽音を護ってはくれない。冷たい風は、容赦なく伽音の首に吹き付け、襟を抜けて全身を通り道にして行く。もう三月も中旬で、暖かくなってもいい頃合いなのに、真冬の寒空に裸で放り出されてしまったように寒い。  亜梨沙とは、一年生の時に出会った。その出会いが劇的なものだったとか、関係性を深めた重要なエピソードがあったとかでは決してないが、伽音と亜梨沙はお互いを知って、確実に距離を縮めて、親友になった。少し夢見がちで、純粋で、傷つきやすい亜梨沙と一緒にいると、ときたますごく、亜梨沙を可愛がって撫でまわしたくなるときもあった。同い年なのに、少しお姉さんぶって、しっかりしないと、と感じることもあった。しかし伽音は、そう感じることすら嬉しかったし、少しの優越感もあった。  でも、周りから見た伽音と亜梨沙は、そうした伽音の気持ちとは真逆で、よく「亜梨沙ちゃんがお姉ちゃんで、伽音ちゃんが妹って感じ、するよね」とクラスメイトに言われた。微笑ましいよ、とちょっぴり上から言われる物言いに伽音はいつもむっとしたけど、亜梨沙はまったくそんなことなく、「そんな風に見られるのって、なんだか面白いよね」と笑っていた。亜梨沙は、思考や言動がたまに幼く見られるときもあったけれど、駄々をこねたり甘えたりするような子ではなかった。ちゃんと一本筋の通った芯を持っていて、伽音が頼ってしまうこともよくあった。自分たちの関係を、だから伽音はバランスがいいと思っていたし、中学二年で亜梨沙とクラスが離れても、自分の親友は亜梨沙だけだと思っていた。三年生でまた同じクラスになって、そのクラスには二年のときに亜梨沙と仲がよかった子も一緒だったけど、亜梨沙は一年のときと同じように伽音とふたりで行動した。少なくとも亜梨沙に必要とされ、亜梨沙も自分と同じように、自分だけが親友、と思ってくれていることに、伽音は感動すらした。藤ヶ丘を一緒に受けよう、と亜梨沙に誘われたとき、そんな自分たちふたりだけの関係は、この先一生続いていくのだと少し安堵もした。そして、優越もまたあった。自分には、確実に「親友」と胸を張れる子がいる。そしてそれは、一方的なものではない。亜梨沙も自分をそう、思っていてくれるのだと、誰にでも言うことができる。  中学三年間、伽音の隣にはずっと亜梨沙の笑顔があった。時には泣き顔があって、時には困り顔があった。クラスが離れた二年生のときも、何もなくても、何も起こらなくても、嫌なことがあってもなくても、お互い会ったし、遊んだ。思い返せば、二年生の一年間で、随分距離にも気持ちにも変化があったと思う。クラスが離れていても、変わらない関係があったという事実は、伽音を強くもしたし、自信をつけてもくれた。 「ごめんね。伽音のことを、考えなかったってわけじゃないよ。伽音と家族を、天秤にかけたってことでもないの。結果的にはそうなってるのかもしれないけど……。でも、ごめんね。あたしは、一緒に行きたいって思ったし、一緒に行くって決めたの。伽音になにも言わないで決めちゃったの、悪かったって、それも本音だけど……。ごめんね。受験前で、伽音を動揺させたくなかったし、伽音に、いらない荷物、背負わせたくなかった。受験終わってから、ちゃんと全部話そうって、思ってた」  亜梨沙が、罪を償うようにごめんと繰り返す。謝罪の言葉は、こんなにも凶器になるものなのかと、伽音自身が不思議に思うくらい、伽音の全身に突き刺さっていく。 「外国で、やっていける?」  やっと出た言葉は、震えていた。冷たい風は、相変わらず伽音の身に吹き込んでいた。そのせいだと、伽音は唇を噛み、歯を食いしばる。  亜梨沙が振り向く。漸く伽音と、目が合う。 「うん、頑張るよ」  亜梨沙が笑う。寂しそうではなかった。  最後に伽音に見送ってほしいな、と亜梨沙に言われるまま、五日後に伽音は空港にいた。空港なんて今まで入ったこともなかった。天井が高くて、無駄に広い。少しでも意識を逸らせば、迷子になりそうだ。前々日に、高校から正式な合格通知が届いていた。大きな封筒には、合格証書と説明会兼物品販売の日程が書かれた紙が入っていた。  亜梨沙は、自分の腰ほどまである大きなスーツケースを持っていた。細身の亜梨沙がすっぽり収まってしまいそうなほど大きなスーツケースだったが、そのスーツケースひとつあれば海の向こうで生活できてしまえるのだと思うと、とても寂しかった。  弟は近くの待合ベンチに座ってゲームをしていたが、亜梨沙の両親は伽音に気づくと話しかけにきてくれた。「亜梨沙も、寂しくなっちゃうよ」と笑うお父さんと、「ごめんね、急なことで」と謝るお母さん。二人の顔には確かに申し訳なさが滲み出ているのに、伽音はすごく悔しかった。  それでも伽音は「いえ」、と精一杯の笑顔を作り、首を横に振った。「亜梨沙には、すごく仲良くしてもらっていたので、わたしも」と続けると、泣きそうになった。けれど亜梨沙の両親は、そんな伽音を見ると目を細めて「じゃあ亜梨沙、出発、もう少しだからね」と言い残し、弟が座る待合ベンチの方に行ってしまった。  亜梨沙の遺伝子は、間違いなくこの人から受け継がれているのだとわかる、明るいお母さんと、柔らかい表情で笑う優しそうなお父さん。もちろん伽音も、面識があった。父親は転勤が決まった直後、すぐに海の向こうへ飛んで行ったと亜梨沙に聞いた。現地で仕事をしながら情報収集し、日本に残る母親と連携して亜梨沙が一番安心して過ごせる環境を整えようと、必死になってくれていたと。そして今日、初めて飛行機に乗り、初めて異国の地を踏む家族が不安に思わないよう一時帰国し、一緒に現地に向かうこともまた、亜梨沙から事前に聞いていたことだった。 「伽音」  不意に亜梨沙が、伽音の前髪に手を伸ばし、左に流した前髪に刺さるアメピンを抜いた。飾り気のない黒いアメピンは百本二百本が百円という低価格で売られている、無くしても盗まれても困らないアイテムだ。亜梨沙に抜かれたアメピンから解放された前髪が、伽音の左目端にかかり、瞬きをすると睫毛が擦れた。亜梨沙はそのままアメピンを持ち直すと、抜かれる前と同じ形でアメピンを差した。伽音も出がけに同じことをしてきたはずなのに、亜梨沙がするとずっと丁寧で、飾り気のないアメピンが、一気にお洒落なアイテムに変身してしまう。恐らく今の伽音は、十分前の伽音より、二割三割増しで可愛いに違いなかった。 「ずっと言ってなかったけど、あたしね、小学校のときちょっとだけいじめられっ子だったの。って言っても、仲間はずれとか、それくらいなんだけど。ほら、あたしって少し子どもっぽいところあるでしょ? それがね、なんだか嫌がる子、いたみたいで。だからね、中学校で伽音に出会って、仲良くなって、朝倉伽音っていう人間を知って。すごく嬉しかったよ。毎日楽しくて、伽音が大好きで、三年間はあっという間で。藤ヶ丘に一緒に行こうって言ったのは、そんな伽音を無くしたくなかったからかもしれない。伽音を、失いたくなかった」  我が儘だよね、と亜梨沙は続けて、悲しそうに口角を持ち上げた。  いじめられていた、などというのは当然、初耳だった。中学生活三年間、毎年どのクラスでも浮いている子はいたし、いつ見かけてもひとりでいる子もいた。伽音にだってもちろん、亜梨沙以外に友達と呼べる子は複数いたし、友達、というのが躊躇われるくらい希薄な関係でも、廊下で顔を合わせれば挨拶をかわす子は、そうでない子より確実に多かった。しかし、伽音も実際、遭遇したことがあるし、その瞬間に居合わせたこともある。廊下ですれ違う程度の子だけれど、ある日突然行動を共にするグループが変わっている。そうかと思えばある日を境に一人でいるところしか見かけなくなる。目が合うと、必ず笑顔で「おはよう」を交わしていたその子と、目が合わなくなる。俯いた顔が髪の毛で隠れて、笑っているのか泣いているのかもわからない。「いじめ」という、秩序を保つためのルールは、絶えず身近に存在していた。ひとつの歪が大きな亀裂になることは、中学生なら全員織り込み済みの事実で、だから誰も、それは渦中の本人さえも、いじめによる社会構築に文句を言うことは許されなかった。それ故「いじめられている」という事実は、とても恥ずかしいことだった。恐らくガラス越しに見ている傍観者は「恥ずかしいことじゃない」と言うだろう。しかし、そこで生活し、生きているものにとって「いじめられている」「いじめられていた」というのは、「自分は、社会構造に歪を作ってしまう人間です」と主張することと等しかった。だから誰も、「いじめられている」とは言わないし、他者にそれを認めさせようとはしなかった。それが過去でも、過去だったら尚更、ひた隠しにして生きていくことが暗黙の了解になっていた。  ここ数日間で、亜梨沙は随分よく喋った。それはこんな風に、「伽音を信頼しているから」と暗に教えてくれているような、話してくれてありがとう、とそのやりとりがまた美談になるような、そういう類の話ばかりだったのかもしれない。しかし、伽音の心はいつまで経っても埋まらなかった。喰われたように大きな穴が無数に開いて、そこをよく冷たい風が吹き抜けた。その度穴が千切れそうに揺れて、痛かった。  亜梨沙の言葉は確かに、伽音のためのものだった。伽音と過ごせて楽しかった、しあわせだったと、全身で伽音に伝えるためのものだった。それは伽音も、十分正確に理解している。だからこそ、そんな亜梨沙が、伽音の一番欲しい言葉をくれないのは、ある種冷酷で残酷に感じられた。亜梨沙は間違いなく、伽音が欲しい言葉を知っている。知っているけど、決してその言葉を口にしない。  もちろん、口に出来ないのだということもどこかでは理解しているつもりだった。けれどどうしても、伽音自身がそれを認めたがらなかった。  合格発表があったあの日、門の前に立つ亜梨沙の姿を見つけた伽音は思わず亜梨沙に駆け寄った。どうして? と問うた声は、確実に期待に満ちていた。その一言だけじゃない。伽音が発する言葉の端を、亜梨沙に拾ってほしかった。拾ってそれで、掬い上げてほしかった。亜梨沙がそうしやすいように、そう、やりやすいような、疑問ばかりを並べたことは、恐らく伽音も無意識だった。  伽音はどこかで、あと一歩を期待している。ずっとそれは変わらない。あと一歩、それは単に、靴裏と地面が擦れるわずかな音に過ぎないかもしれない。後退った拍子に、小石が転がり落ちるだけかもしれない。それは本当に些細なことで、些細なことだからこそ、きっかけがあれば簡単に起こってしまう。それと同時に、一度のきっかけを見失うことは決して許されない。その一回を見過ごしてしまえば、同じきっかけは二度とやってこない。伽音はそう思うから、どんな一言でも聞き逃さない心構えでいる。亜梨沙の言葉や、どんなに些細な言動も、拾えるように。掬えるように。  だから、早く。  伽音は今も期待している。きっと、亜梨沙が飛び立ったあとも期待せずにはいられないだろう。この現実が、真っ白になる瞬間を。  一際大きなアナウンスが、場内に流れ始める。天井の高さもあって、そのアナウンスはとてもよく響く。亜梨沙の背後、少し先にある待合ベンチに座っていた亜梨沙の弟が立ち上がる。両親が、荷物を手にする。飛行機に乗ったこともなければ、当然空港を利用したこともない伽音にはわからなかったが、目の前の亜梨沙がスーツケースのハンドルを伸ばしたことで、亜梨沙はもう行かなければいけないのだと悟る。 「ねえ、伽音」 「なに、亜梨沙」 「藤ヶ丘、いいとこだよね。あたしたちの、憧れだもん。だから勉強だけじゃなく、いろんなこと楽しんでね。それと、いろんなとこ、探索して。あたしね、伽音と一緒に高校生活を送れるように、『魔法の箱』を隠したの。伽音、絶対見つけてね。そしたらあたし、伽音の傍で、いつも笑っていられるから」 亜梨沙が唇に孤を描かせて笑う。亜梨沙らしい、無邪気な笑顔だった。 「ほんと? 亜梨沙」 「うん、ほんと。だから、見つけて。ね? 伽音」 「必ず、見つける……」  涙声になっていたことが、伽音自身にもはっきりとわかった。  まだ、チャンスはあった。チャンスは、残っていた。亜梨沙が、残してくれていた。その箱を伽音が見つけることさえできれば、亜梨沙は帰国できる。だから亜梨沙は、伽音が一番欲していた言葉を言わなかったのだ。言わないでいたほうが、見つけたときの喜びは一入だ。  ――あたし、やっぱり伽音と藤ヶ丘通う。  伽音が欲したその言葉を、亜梨沙が発することは一度もなかった。亜梨沙が最後に残した言葉は、「またね、伽音」。大きく手を振って、笑顔の亜梨沙は海の向こうへ行ってしまった。伽音が外に出ると、春の匂いがした。それは甘い蜜が入った花のような、甘くて優しい匂いだった。季節は廻った。春がくる。空気も湿度も温度も、人々が浮足立つためにちょうど良いものになる。すん、と伽音は、空気をひとつ嗅いでみる。  春の匂いがする。  それは今年、伽音が初めて嗅いだ春の匂いだった。 # # # 「きっと亜梨沙は、日本に帰国できるようになるなにかを、藤ヶ丘に隠したんです。藤ヶ丘に、通えるようななにか。飛行機のチケットとか、そういうものを。だからあたしは、一日も早く、それを見つけなきゃいけないんです」  静かに淡々と、感情を込めずに話す伽音の話を、咲紀も千歩里も、相槌すら打たずに聞いていた。見つめる目は真剣そのもので、それ故憤りを感じているようにすら見える。 「入学してから毎日、探せるところはすべて探したつもりです。心当たりのある場所はもちろん、ない場所もすべて。でも、ないんです。早く、亜梨沙を見つけてあげなきゃいけないのに。あたししか、亜梨沙を見つけることはできないのに」  時計台はもちろん、受験日に試験を受けた教室や、一緒に歩いた校内も、見落とすことなく伽音は探した。地面に埋まっている可能性もあるのだから、掘り起こされた形跡がないかも注意深く見回っている。しかし、ない。見つからないのだ。入学してからもう、一か月以上経っているというのに。 「お願いします。亜梨沙の隠した箱を、一緒に探してください。どんな手を使っても、あたしは亜梨沙を見つけたいんです」  足を揃え、綺麗に頭を下げる伽音。咲紀がロッカーから降りる。 「わかりました。その依頼、シバクロ探偵社がしっかりと引き受けます」  強い言葉だった。少なくとも、伽音にとってはこの上なく、強い言葉だった。藤ヶ丘でかけられたどんな言葉よりも、それらと比べるのが勿体ないほどに、伽音の心を支えてくれる。 「ありがとう、ございます……」  声を震わせずには、いられなかった。 「それじゃあ伽音ちゃん。改めて紹介します。わたしたちは、この藤ヶ丘学園高等部で『シバクロ探偵社』という活動をしています。一応、部活動の一貫として認められてるかな。局長の咲紀と、局員のわたし、芝原が、高等部生徒の『困った』を、一緒に解決することが活動内容なの」  千歩里にそう説明されて、伽音はシバクロ探偵社がどういう団体なのか、はっきり知らなかったことを思い出した。相澤が発した言葉だけを拾い、「困っている人を助けてくれる」という情報しか、伽音は持っていなかった。  局長である咲紀の高い位置で結ばれたポニーテールの結び目にはよく見ると、簪のほかにボールペンも刺さっている。はっきりした顔立ちからは、意思の強さと物怖じしない性格が伝わってくるようでもある。猪突猛進。そんな四字熟語が伽音の頭に浮かぶ。  その隣で柔らかに笑う千歩里は、咲紀の隣がよく似合う。咲紀が動とすれば、間違いなく千歩里は静だ。お互いの良さを引き出し合い、打ち消し合う関係としては、完璧に近い割合でつり合いが取れているのだろう。 「わたしたちの活動は、常にひとつだけってことでもないの。何件かの依頼を掛け持ちしていることの方が多いから、いつでも伽音ちゃんにかかりきりってわけにはいかないってことは、了承しておいてね」 「人気なんですね。お二人とも」 「あははっ。わたしらが人気ってわけじゃないよ。それだけ、困ってる人が多いの。藤ヶ丘は、中に入ってみると個性的な人間、多いよ。伽音ちゃんも、感じたことない?」  豪快に咲紀が笑い、伽音にそう問いかける。個性的というよりは、お姫さま雰囲気が存分にある人間の人口密度が高いなとはこの一時間ほどで思っている。 「あんまり……。あたし、藤ヶ丘に友達もいないし」 「ほしくないの? その、亜梨沙ちゃんがいるから?」  はい、と答えようとして、喉につかえた。亜梨沙がいるから藤ヶ丘で友達はいらない、と思ったことは一度もない。けれど今、亜梨沙をないがしろにすると、伽音は亜梨沙を一生涯失ってしまう。その自覚だけははっきりとある。  中学二年の一年間で、クラスが離れていても親友でいられた。だから伽音が藤ヶ丘で友達をつくっても、伽音の中で亜梨沙の存在は変わらないところにある。伽音には自信があるし、それ以前に伽音にとって事実以外の何物でもない。しかし、今は亜梨沙のことだけを考えていたいし、考えなくてはいけないような気がする。だから、わからない。今現在、自分が友達を欲しているのかどうかすら、答えを見つけられない。 「集団の中でのみ感じる孤独があることには、気づきました。それが、すごくつらいってことも。仲間はずれや、いじめっていう明確な理由がなくても、群れていることが当たり前の雰囲気の中に一人で立ち続けているのは、勇気がいります」  咲紀の質問に対する答えにはなっていないと思いながらも、伽音はそう話した。その言葉ひとつひとつが、今の伽音を表現するのにぴったりであったとは思えないが、伽音自身、今の状況は打破したいし、誰かと話したいと思ったことは、この一か月で何度もある。  俯く伽音に、咲紀が一度なにかを言いかけて、口を噤む。けれど、やはり口を開いた。 「うん。そうだね。大丈夫。それを経験した人間、ううん。気づいた人間は、その存在すら知らないでいられた人間より、ずっと強いよ」  咲紀の言葉は、いつだって力強い。伽音は顔を上げ、目の前の咲紀を見上げる。咲紀の力強い言葉の底には、咲紀自身が持っている力強い人間力が広がっている。決して崩れることがないように形成されたその上に乗せられた言葉たちに触れるとき、どんな人間であっても自分の底から少しのパワーが湧いてくるのだろう。少なくとも、探偵社へ依頼に来る生徒は、咲紀の言葉で前向きになり、諦めない強さを貰えるはずだ。  そう思うと、伽音にも心強さが宿った。そういう強さを意識的に実感したのは、初めてのことだ。  伽音が、笑う。  それはとても薄い、まだまだ弱弱しい笑みではあったが、咲紀は歯を見せて笑った。
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