夏の祭典

4/4
前へ
/29ページ
次へ
それは、ヒトだからなし得ること。  それがどういうことなのかも氷解した。  ―――他の動物なら、自らの、あるいは同属の、あるいは生態系全体の死、それを免れるための本能に沿ってただ死力を尽くして生きるだけ。  その意識に何らの情念も情緒も介在する必要はない。  しかし。  脳の極度に発達したサル科の一種がその死を強烈に意識した時、あまりに不安定に思えるその『生』を、それを支えるために、ヒトの無意識は生命の本質の『生』と、それそのものから感覚の中で分化したものと共に、合わせて三本の柱の上にそれを支えることにしたんだ。  一つは、『聖』。  この場所。命の源とさえなりうるような、超自然的な神仏を祀るこのような場所。  もうひとつが『性』。  聖と対をなす俗の極み。歩道橋から見たあの街。  この相反する側面が互いにバランスをとりあって、ヒトの感覚上の生の形は安定している。  まるで、三角関係のように。  十六年生きて初めて気づいた。ここは、そういう街。    生なるは、まぐわひあひて いずるらむ                むべ(ひじり)をば セイといふらむ    そして、祭りのハレの気。     聖と性の混合。   原初に還るかのような。    あれは、この三角の煩わしさを一時取り払い、むきだされた感覚のままの生と死が差し向かいになることが、年に一度ぐらいはあってもいいという心理から生まれたものじゃなかろうか。  それが、生の(ナマ)の形を表しているなら、それと対照にある普段の私たちの生活の中のことばや、感情。  それを表すこの皮膚を持った顔。同属同士が、その疎通によっての安定をみとめあうことで、一個体の生命への感覚もまた安定する。 聖と性に対してそれぞれ適当な顔を使い分ける。種のおりなした世の安寧を守る。  その生々しい生との対比。それこそが、生仮面。    作った花を、石碑に添える。  あの狐が求めたのはきっと、この感覚ゆえに生まれた人為的機構の中に沈殿していったものたちへの、面を外して向かい合う、こころの一端。  徒花。  その地に、その面をかぶって生きる一人の娘の、その手向け。  夏空の下。祭りの季節が遠ざかる。                     
/29ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加