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知らなかったが、さもありなんと思った。
生存本能をも思想が超える。
それもまた人間の習性の一つとはいえ、そんなことがおいそれと起こるとも思えない。
ただ、その最も卑近で矮小な例は見た。
中学生の頃、今でいう自我の確立に思い悩んだ挙句、自らの腕に刃物を当ててしまった女の子。
その気持ちは、わかる。
いや、私にそういう意思があるということじゃなく。
そういうことをしてしまうひとの心理は、おそらく、明るく健全な精神を誰よりも求めているところにある。
それが自分でも自分の周りにも実現されないから、いっそ全てを捨ててしまいたくなる。そういうことなのだろう。
武士の切腹も、メンヘラ女生徒のリストカットも、結局は生命の基盤が安定した上で、その精神の空漠を埋めるものを求めるところにしか起こらないはずだ。
先生の話は続く。
「私も、若い頃は一剣道家として、武士の生き様を現代に体現したような生き方をしたいと思っていた。
しかしこの年まで自分なりに勉強を重ね、考えてみるとそれも少々形が変わってきた。
武士道とは、日本の『文化』。
文化とは、『人間が頭で考えて作ったもの』だ。
それは人間の意識の被造物ゆえに姿形をたやすく変え、特定の意図に利用することもできる。
無益で無謀な戦争のために未来ある若者を死地へと追いやることも、な。
だから最近私は、いかなる文化も、国家の精神の礎においてはならないような気がしてきている。
それがどんなに進歩し洗練されようとも、それを生み出したのは人間に他ならず、その知性があるゆえの齟齬や過ちは幾重にも繰り返されてきたからだ。
我々が歴史に学ばなければいけないのは、人間が進歩するためではなく、もしかしたら人間は生物としてはもう進歩しないから 、なのかもしれないな。
そして、この文化と対をなすもの。これが、『文明』だ。
これは、『人間という生物が生きていく上で自然に発生したもの』といえよう。
神や仏、キリストなどが世界の様々地域でそれを象徴しているが、東アジア圏の文明の差異たる象徴は、やはり稲作にあると私は思う。
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