3.異界転生

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3.異界転生

  「今日は何、“肉”? なんですかこの雑なオススメは」  河相さんは僕の隣のカウンター席に腰を下ろし、西片さんにそう言った。西片さんは肩をすくめ、「良い肉なんだよ、オススメだ。今まさに1枚目が焼かれているところ」と僕のメインディッシュを顎で示した。「そろそろ食べごろかな」  肉汁を無駄にしないためなのか、僕の皿に薄いパンを乗せ、その上に焼けた肉を短冊状に切って乗せる。その抵抗なく切られていく滑らかさから肉の上質さが伺える。 「なにこれ、すごくおいしそう」  河相さんは目を輝かせた。 「よかったら一切れ食べます? その上で注文するか決めたらどうですか」  僕は河相さんにそう勧め、彼女は満足そうに頷いた。「なんだ君は。ひょっとしてイイヤツか?」 「実はね。僕は結構イイヤツなんですよ」 「旨い! これは良いね、わたしも頼もう」 「まいどあり」と西片さんは笑って言った。「どうしたの河相さん? 何かいいことあったのかい」  西方さんも僕と同様の感想を抱いていたようで、河相さんにそう訊いた。どちらかというとクールビューティーな彼女がこのような態度を見せるのは珍しく、精神科医としては軽躁状態なのではないかと疑ってしまいかねないものである。 「いいこと? あったよ。ようやくサッカー担当に戻れそうだ」  河相さんは満足そうにそう言い、注文したビールをぐびりと飲んだ。彼女は評判の良いスポーツライターで、元々の専門はサッカーだったが、その地位の上昇につれてバスケやほかの競技についても担当させられてきたということを僕は知っている。  そのため、担当が広がること自体は歓迎していた筈だ。それがサッカー担当に戻ったということは降格扱いになったのではないのだろうか。  このデリケートな質問をどう訊こうかと悩んでいると、西片さんがあっさりと尋ねた。 「でも河相さんって元々サッカーだったじゃん。仕事が減らされたってわけじゃないの?」 「そうじゃないです。新しくサッカーに特化した部門を作ろうって話が出てて、そこの責任者的なポジションになりそうなんです」 「出世ですか」 「一応ね」河相さんは焼き野菜を食べてビールを飲んだ。「紙媒体になるのかweb上のものになるかも決まってはいないけど、やりたいことがやれそうだ」  サッカーが専門分野だという河相さんとは対照的に、僕がかつて情熱を注いでいたのはバスケットボールだ。彼女と縁ができたのもバスケを真剣にやってた時期の話で、その節は色々とお世話になった。一時的に僕はプロになりたいとさえ思っていたのだ。 「じゃあもうバスケとはオサラバですか? 僕としては少し寂しいものがありますね」 「もちろん趣味の範囲ではバスケも追い続けるつもりだけどね。なにしろバスケの戦術はサッカーと比べて進んでいるから」 「そうなんですか?」  サッカーに詳しくない僕は、僅かだが確かな食感と、強烈な旨みを残して消えていくお肉をうっとりと味わいながらそう訊いた。  舌に残った余韻をビールと一緒に流し込めば、また新しい感動を迎えられる。西片さんが皿の隅に乗せてくれた粒マスタードを乗せて食べれば少し違った味わいが楽しめる。しかし様々な楽しみ方をするには短冊の数はあまりに少なく、この料理人は僕に肉のおかわりをさせるつもりなのではないかと僕は疑った。  旨い肉を楽しむ間に河相さんはバスケットボール戦術の先進性について教えてくれた。なんでも近代サッカーは戦術面でバスケを参考にしている場合があるらしく、最近ではその動きがますます活発になっているらしい。サッカーの最新戦術を理解し流行に乗るにはバスケの勉強をするのが効率的であったそうだ。 「サッカーはピッチの広さも規定内で自由だし、芝の貼り方もスタジアムごとに異なっている。プレイ人数も倍以上いて野外だから天候の影響も受けることだし、足を使うからそもそも失敗を前提としたものとなってるからね。何というか、おおらかなんだよ。わたしはそこが好きでもあるけどね」 「おおらか。確かに時間も適当だしね。なんでそうなんだろうね?」  焼かれたお肉を河相さんに供給しながら西片さんがそう訊いた。僕にビールのおかわりを注ぐ。気づくと店内には何組かの客が増えていて、店長である西方さんはなかなかに忙しそうな様子だった。 「質問しといていなくなるのはどうなんだろう?」  先ほどのお返しということか、焼かれた肉を一切れ僕の皿に渡しながら河相さんはそう言った。「まあでもお肉が美味しいから許してあげよう。さっきはどうもありがとう」 「どういたしまして。――僕はサッカーのことわかりませんが、何か理由ってあるんですか? その、サッカーのおおらかさについて。地域性ですかね?」 「地域性というよりは国民性じゃないかな。あとはそれぞれができた経緯だね。サッカーの起源は諸説あるけど」 「昔は村と村の、お祭り兼対決みたいな感じだったんじゃないですっけ」 「それはイギリス起源説と言われるやつだね。モブ・フットボールとか言われるやつだ。そのほかにも大きくイタリア説と中国説があって、実は今有力視されているのは中国説なんだ」 「中国起源説!? 本当ですか」 「嘘みたいな話だけど本当だ。FIFAの公認とかされてるんじゃなかったかな。まあ、おそらくいくつもの地域で同じような催しは行われていて、本当の起源やひとつの確かな元祖なんてものは存在しないというのが真実なんじゃないかとわたしは思っているけどね」 「中国から全世界へサッカーが広まったっていうのはちょっと想像しづらいですね」 「でも中華料理は全世界へ広まっているからね、可能性はゼロじゃないかも。“元祖・博多ラーメン”の起源は中国なのか? みたいな話になってくるかもしれないけれど」 「なるほどね」と僕は言った。  仮に同時期に同じような競技が各地で発足していたとして、その厳密な年代や影響の有無を調べられたとしても、因果関係を証明するのは不可能だろう。しかし、と僕は考えた。それはあらゆる昔からあるスポーツがそうなのではないだろうか?  そんな僕の疑問はあっさりと否定された。 「バスケットボールは最近できた競技なんだよ。うろ覚えだけど、確か1900年くらいにアメリカのどこかの先生が作った筈だ」 「作った? スポーツって作れるものなんですか?」 「作ったんだ。エンターテイメントと合理性の国民が、冬に屋内でできる競技を自分たちで作ったのがバスケットボールのはじまりだよ。だから規格もルールもハッキリしていて、論理的な戦術も立てやすい」 「――だからバスケの戦術は進んでるんですか?」 「おそらくそうだろうね。類似点も多いからサッカーを立ち上げ時の参考にしたのかもしれないけれど、今日では立場も逆転して、戦術を逆に取り入れられるようになったというわけだ」 「へええ」  僕と同時に感心のため息をついたのは西片さんだ。「なんでそんなこと知ってるの?」 「わたしはそれなりに優れたスポーツライターなんですよ」  お肉の最後の一切れを口に運びながら、河相さんはそう言った。 ○○○ 「デザートどうする?」  メインのお食事を終えた僕たちに西片さんはそう訊いた。お肉の後にはその肉汁を使った炒飯のようなものが振る舞われ、僕たちはとても満足したものだった。 「どうしようかな。河相さんはまだ飲みます?」 「今日は仕事をしないからね」  ニヤリと笑った河相さんはビールをおかわりしてそう言った。「フライドポテトを食べたいな」 「いいですね。今日できます?」 「もちろん。魚もあるからフィッシュアンドチップスにしてあげようか」 「天才みたい」と河相さんは喜んだ。  僕たちは揚げ物を食べてビールを飲んだ。途中から酒やつまみを変えていき、フルーツをワインで漬けて作ったサングリアを飲んだり癖の強いウィスキーをちびちびと飲んだりした。控えめに言って、僕はかなり充実した時間を過ごしたものである。 「バスケは最近やってないの?」  だいぶ酔いも回ってきたところでそんなことを尋ねられた。僕はチェイサー代わりに頼んだジンジャーエールをちびりと飲んで、「たま~にしますよ。遊びでね」と答えた。「大学病院には病院のバレー部みたいなのがあるから、そっちに顔を出したりもしますね。こっちの方が楽しめます」  そして僕は怪我と酷使に耐えられなくなってしまった右膝をポンポンと叩いた。河相さんはゆっくりと頷く。「未練のようなものを感じたりする?」 「未練か。ないと言ったら嘘になるかもしれませんが、一応精一杯頑張りましたからね。あと10㎝背が高かったら、と同じレベルで健康な膝が欲しいと思いますけど、そんなに強くはないですね。日常生活に支障はないし」 「痛んだりはしないんだ?」 「普通の生活や遊びの運動はできますよ。すべてを振り絞って戦うことができないだけです」  はじめて自分のイメージ通りに体が動いてくれなかった日のことを思い出す。あれは深い絶望だった。思った通りのステップを踏めず、100回やったら100回成功していたムーブの中、ボールが僕の手から滑り落ちたのだ。  転々とフロアを転がっていくボールを眺める自分が思い出される。僕は大きくひとつ息を吐く。西片さんがデザートの盛られた皿を出してくれた。 「まあでもお医者さんとしては、そういった挫折や絶望感を知っていることは良いことなんじゃない? スポーツドクターになろうとは思わなかったの?」 「もちろん考えたことはありますけどね、こっちの方が面白いかなって思ったんですよ」 「ふうん。精神科、面白い?」  河相さんが僕に訊く。僕はそれに頷いて答える。 「面白いですよ、新世界の神とか来ますし。あまり患者のことを具体的には話せませんけど」  僕はアルコールの作用で靄のかかった頭で隔離室のマットレスにまっすぐ座ったフィアマのことを思い出す。そういえば、彼女は僕に協力しろと言っていた。いったい何をやらされることだろう。  僕と河相さんはその後もしばらく話を続け、パンナコッタやティラミスを食べて砂糖を浮かべたエスプレッソを飲んだ。 ○○○ 「やっと来たか」とフィアマは言った。「待ちくたびれたぞ」  やはり彼女は隔離室のマットレスの上でまっすぐ座って僕を見ていた。心なしか表情が晴れやかに見える。病状が良くなっているのかもしれない。 「こんにちは。気分はどうですか?」 「悪くないね」  僕はフィアマの睡眠状態や食欲などを確認し、雑談めいた会話を続けた。気分の沈み込みは見られない。機嫌は良さそうだけれど躁状態にも見えなかった。プレコックス感は感じられず、いわゆる陽性症状も陰性症状も見受けられない。つまり、統合失調症患者にはまったく見えない。  純粋な妄想性障害というやつだろうか? 上級医の見立てを伺う必要性を感じながら、経過は概ね良好と言えるのではないだろうかと考えていた。  やはり患者を診るのは良い。自然と目の前のことに集中できるからだ。どんな診察記事にまとめようかと会話を続けながら頭に遊ばせていると、「試したいことを考えてみた」とフィアマが言った。  試したいこと? そう疑問に思ったところで、何か協力して欲しいと言われていたなと思い至った。 「そういえばそうでしたね。できないこともあるという前提でいいなら話を聞きましょう」 「待っている間に色々試してみたのだが、どうやらこの体には神力(しんりき)がほとんどないようだ。使えないのではなくて、そもそもの量が少ないように思われる。つまり――」 「つまり?」 「君の体の神力を利用できれば、やはりあちら側に戻ることができるのではと考えている。しかしその方法がわからないため試行錯誤する必要がある」  フィアマはニコリと微笑みを浮かべ、いつの間にか立っていた。マットレスにまっすぐ座っていた筈なのに、しゃがんだ僕からは見上げるような形になる。  1歩分の距離を近寄ってくる。近づくなと言うべきだろうか? しかし、僕は金縛りに遭ったように身を動かすことができなかった。 「やはり感じる、しかし使うことはできないな、近づくだけでは十分ではないのだろう」  フィアマに手を差し伸べられた僕はその手を取った。それがとても自然なことのように思えたからだ。小さく引かれた力に逆らわずに立ち上がる。フィアマは女性としては長身で、背の低い僕とはほとんど頭の位置が違わない。 「動かすぞ」とフィアマは言った。  握った手を動かすのかと思っていたがそれは違った。フィアマは手を動かさず、僕の手も動かない。しかし皮膚の下で何か熱量のようなものが僕の腕からフィアマの方へと導かれていくのが感じられた。 「なに!?」  あまりの違和感に僕は思わず手を振りほどく。フィアマはそれを見てニヤリと笑った。「思ったより簡単そうだな?」  理解不能の事態に思わず乙女のようなポーズで自分の右手を抱えるように警戒した僕は、なおも差し出されるフィアマの右手に対して首を横に振っていやいやをした。 「今僕に何をしたんですか?」 「言っただろう? 君の神力をコントロールしてみた」 「シンリキのコントロール?」 「わたしの方に少量引き出すことができた。これならうまくいきそうだ」  フィアマはそう言い、満足そうにゆっくりと頷いてみせた。「神力が動くのを感じただろう?」  何も言い返すことはできず、たった今体験した不思議な感覚をどう処理すれば良いものか、僕は途方に暮れていた。  確実なのはただひとつ、よくわからない事態からは逃れた方が良いであろうということだけだ。僕はフィアマの隔離室の扉のところに立っている。一歩後ずさればこの電子錠付きの扉を閉じ、彼女を隔離することが可能となる。 「それはやめて欲しいな」  僕の考えを見透かしたように、フィアマは僕にそう言った。それまで気づかなかったが、彼女は右手に腕輪のようなものをつけている。措置入院の隔離室患者に装飾品の類が許される筈がない。隔離室から立ち退くのを忘れて僕はフィアマの右手首を凝視した。 「ああこれか? これはブレスだ。神具のひとつで、この体はブレスを出し入れすることさえできないほどに神力がなかったわけだ。君のおかげでほらこの通り」  僕に見えやすく右手を掲げたフィアマが右手の腕輪をちらりと見ると、緩みなく装着されていた腕輪が忽然と姿を消した。女性の細さをした手首が目に映る。  すぐに再び腕輪が巻かれ、フィアマはニヤリと笑いかけてくる。あまりの驚愕と恐れに動かすことのできない僕の右手を、彼女の腕輪の巻かれた右手がグッと掴んだ。熱量のようなものが掴まれた場所から流れ出ていくのを感じる。その右手に巻かれた腕輪が光を発する。 「やはり君は筋がいい。この神力を使わず生きているだなんて、少し惜しい気さえするよ」  フィアマは好意的な口調でそう言った。その手を振りほどこうと力を込めたが、引退した身とはいえアスリートの体力を持っていた僕の力でもどうにもならない結合となっている。 「そろそろいくよ」とフィアマは呟くようにして言った。  そして彼女を形作っていたエネルギーの塊のようなものが流動的な状態となり、この世界から抜け出ていくのを僕は感じた。鍋の中で沸騰した水が気体となって消えていくようなものだ。それはあまりに自然な現象であって、僕は何の疑いもなく掴まれた右手越しにその感覚を共有し続ける。  予想外だったのはそこからだ。その、かつてフィアマだったものは最後に僕を掴む右手を回収しようとするのだが、それがどうしてもできなかった。穴から出ようとするのだけれど、掴んでいるものが大きすぎて引っかかっているような印象だ。掴んでいる大きなものとは僕の腕のことである。  そんな場合にどうするか? 無理やり掴んでいる腕をくぐらせ引っ張り、ひっかかりが何らかの形で解消されるのを期待することだろう。実際彼女はそうやった。  何かにひっかかるようにして抵抗をもたらす僕の腕を通そうと、何度か勢いをつけるようにして力を込めているのが僕に伝わる。痛くはないがとても不快だ。シンリキと呼んでいた熱量のようなものを吸い出されるだけではなく、その塊のようなものを僕の体から無理やり引きずり出そうとしているようにさえ感じられた。 「無理無理! だめだって!」  そんな僕の意見が受け入れられることもなく、何度か壁にぶつかるように抵抗を試みた後、なおも試行錯誤は重ねられた。  そしてその最後の1回が訪れた。ひときわ強く引っ張られた時、僕は自分の体の殻のようなものを打ち破って何かが外部へ滑り出ていくのがわかった。それが自分自身だということが強烈に実感される。  気化して水蒸気となった水は自分がどこへいくのかわかるのだろうか? 少なくとも自分の意志で行先を選べはしないだろう。  自分とその周りに何が起こっているのか、ろくに把握できていないまま、僕は気流に沿って移動する水蒸気のように、ただ導かれるままどこかへと移動していった。  
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