4.少年ミノレ

1/1
25人が本棚に入れています
本棚に追加
/32ページ

4.少年ミノレ

   何とも形容し難い感触だった。  イメージとしては流体となって狭い通路を無理やり通過させられているような感覚だ。何らかの圧力をかけられた僕はその通路に従ってじわじわと進む。速度を速めることも遅めることもできず、進行方向も選択できない。何も干渉ができない運動に身を任せるよりほかにない。  あまりに無力なのでかえって諦めがつくというものだ。かつてバスケットボーラーとして、より高みに達するという欲望を否応なしに捨てさせるような怪我を僕は負ったことがある。そのときも僕は限りなく無力だった。自分の体がその必要に応じて治癒してくれるのを待つしかなかった。焦ったところで物事は好転しないのだ。  しかし、焦らずじっくり取り組んだところで自分の思い通りになるわけでもないというのが人生の難しいところである。  移動しつづけているのが感覚でわかる。僕の心の名刺の肩書をプロバスケットボーラー候補から医者の卵へと書き換えさせた右足が今どこにあるのかわからないが、それもまた考えても仕方ないことのひとつだった。  どれだけの時間が経っただろう。やがてその感触に変化が訪れた。にゅるりと押し出されたトコロテンのように、広い空間に唐突に解放されたような心地がする。僕が勝手にそう想像しているだけなのだけれど、このイメージが固体ではなく液体の状態で良かったと思う。トコロテンは筒から解放される際、細長い多数に細断されてしまうからだ。  解放された僕はだだっ広い空間に漂っていた。ふわふわと浮いているようでもあり、どこかの何かから受けるいくつかの引力が働きあって奇妙なバランスを維持しているようにも感じられる。そのバランスが崩れた。  崩れた後はあっという間だった。ふわふわと漂う僕はある一点に向かって急速に収束されていき、やがてその目的地のようなものがあるひとつの肉体であることが僕にはわかった。  流体の僕は、その肉体へと注がれていった。 ○○○  まず感じたのは強烈な苦痛だった。  とにかく暑い。息苦しい。鼻から息をすることができず、仕方なく口から空気を吸うと、カラカラに渇いた上に熱を伴っている喉が空気との摩擦に悲鳴を上げる。  目を開くのも苦痛な状態だ。わずかに開いた薄目から周囲の様子を伺う。ほとんど光源がなく薄暗いことと、そのごく少量の視覚情報さえもが刺激となって苦痛を与えてくることだけが僕にはわかった。  体が重く、手足はまったく動かない。あえて動かそうという気にもならないが、まるで四肢の先端が鉄球に埋め込まれているような重みが感じられ、それだけが僕に手足がついていることの証明となっていた。  ――誰か助けてくれ。  生存欲求を口にするが、出たのは紙が擦れたような小さな渇いた音だけだった。機能を放棄したように働かない声帯が咽頭痛を引き起こす。反射的に体は咳をしようとするけれど、その衝撃で喉が張り裂けたのではないかと思える疼痛が僕の頸部に広がった。  一連の苦しみにすっかりうんざりした僕は、抵抗することを諦めてしまった。手足をその重さのままに捨て置き溢れる涙をそのままに流す。できるだけ刺激の少ない方法で息を吸い、細く息を吐く。ぼんやりと意識が遠のいていくのを感じる。いったい自分がどのような状況にいるのかよく把握できていないのだが、おそらく治療も栄養も体力も足りていないのだろう。  冷たい何かが僕の頭に触れるのを感じる。わずかに頭皮に伝わる圧力からそれが人間の手であることがわかる。頭を撫でられているのだ。地獄のような状況の中、それは一筋垂らされた蜘蛛の糸のように僕に唯一与えられた癒しだった。 「ミノレ」とその手の主が言う。  自分の名前を呼ばれているということが自然とわかった。優しい音色だ。その声の主が自分の母親であることが何の疑いもなく実感される。頭を撫でる手とその声かけにとても心が満たされるからだ。しかし僕には既にその幸せに反応する術が残っておらず、ただされるがままにするしかなかった。 「ああミノレ」  母親が悲しんでいるのがわかる。何とか慰めてあげたいものだが僕にはどうするのこともできない。痛みをこらえて瞼を持ち上げ眼球を声のした方に動かすと、おぼろげながらにその姿が見える気がする。 「もうこいつは無理だろう。お前も触らない方がいい」  母親の影の向こうからそんな声がかけられた。声の主が父親であることが僕にはわかる。ひどいことを、と思う心と、その通りだ、と納得する気持ちが同時に湧き上がる。おそらく僕は病床に伏しており、完全に衰弱しきった状態なのだ。どんな病原菌が体内に繁殖していることだろう。少なくともこの接触に何らかの感染症リスクが生じている筈だ。  淀んだ頭でそんなことを考える。ふたりの言い合いは続いているようだった。 「どうせこいつは元々魔力持ちだった。これも思し召しというやつだろう」 「あなたの子なのよ。よくそんなことが言えるわね」 「俺の子だから言ってるんだ、俺とお前の子はまた作ればいい、その子のためにお前がこれ以上苦しむのを見たくないんだ」 「私をこれ以上苦しめたくないのなら、しばらく私を放っておいてちょうだい」 「――わかった。同じ水を飲むんじゃないぞ」  コトリと何かが置かれる音がした。それが僕用の水を入れた器であったことがじきにわかる。湿った布が当てられ僕の口元を潤してくれたからだ。熱く乾いた粘膜が喜びと快感を僕にもたらす。しかし、そうして水気を得るための動作は僕の呼吸の邪魔となる。息苦しさはより増した。 「ほらほら、苦しくないように。――もう水を飲むこともできないものね」  水を持ってきたのは父親なのだろう。彼は冷たい物言いをしていたが、決して我が子への愛情がないわけではないのだ。ただ現状を受け入れているだけだ。僕には十分理解できる。  彼らがどのような態度で接そうが、僕のこの苦しみは変わらない。そしてその苦しみさえもが失われつつあることが僕にはわかった。苦しむためにもエネルギーは必要となるのだ。  僕にはそのエネルギーが残っていない。あるいはこの限度を越した苦痛に対して脳内麻薬のようなものが分泌されているのかもしれない。頭に添えられた指の感触もよく感じられなくなってきている。  やがて吊った荷物の重みで伸びきった糸が切れるように、僕は意識を失った。 ○○○ 「ぶはっ!」  爆発的に目が覚めた。身を起こすより先に強烈なめまいが僕を襲う。回転性のめまいと浮動性のめまいが同時に発生しているようだ。ぐにゃぐにゃと歪む世界に対応し、遠のきそうになる意識をなんとか保つ。  僕はどうやら粗悪なベッドのようなものに横たわっているらしく、ちくちくと毛羽立った繊維か何かが皮膚を刺激する。寝心地は最悪で、できればすぐにでも立ち上がりたいところである。しかし現在の僕はきわめて転倒リスクが高いと思われたので、めまいに苦しむ頭を両手で抱えるようにしてそのまましばらく症状が治まるのを待つことにした。  やがてめまいが治まってきた。大きくひとつ息を吐く。周囲の様子を伺おうと頭を上げると、すぐそばに女の子が座っているのに気がついた。 『生きてる?』  女の子は僕にそう訊いた。それまで耳にしたことのない言葉だったが、不思議なことに彼女が何と言っているのかが僕にはわかった。僕は生きている。小さく彼女に頷いて見せると、「水いる?」と細長い筒のようなものを彼女は僕に差し出した。  僕は現状が把握できていないまま、差し出された筒を手に取った。どうやら竹のような素材でできた水筒らしい。小さな棒が飲み口であろうところに突き刺さって栓をしている。これを外して飲むのかと視線で訊くと、女の子は大きく頷いた。  一口飲んで盛大にむせた。どうやらあまり清潔な水ではないらしく、土の粒子か何かが入っている。変な味だ。変な味だが、そういうものと認識すれば飲めないことはなかった。何より水を口に含んで気づいたのだが僕はとても喉が渇いている。 「あまり一気にたくさん飲まないようにね。あんた、死にかけてたんだから」  女の子は何でもないことのようにそう言った。僕は驚きに目を見張る。いや、驚きではないのだが。確かに僕は死にかける体験に関する夢のようなものを見た。死にかけるというより死んだと言った方がしっくりくるような内容だった。  ――夢か。  自然と考えたその感想はとても真実に近いような気がした。臨死体験というにはそれはあまりに客観的なものだった。僕は死にかける苦しみを感じてはいたけれど、それはどこか他人事のようにも感じられた。  何より今の僕の状態は死にかけとはほど遠い。呼吸もままならないような状態ではなく水の入った水筒を扱う手に力が入らないということもない。  あれは夢だったのだろうか? 「僕は死にかけていたの?」  そう女の子に訊いてみると、彼女は大きく頷いた。 「というかほとんど死んでたわ。たまたまあたしが見つけなかったら、やっぱりそのまま死んでたんじゃないかしら」 「そうなんだ。――何て言えばいいかわからないけど、とにかくどうもありがとう。その、助けてくれて」 「どういたしまして」と彼女は言った。「ところであんた、名前はあるの?」 「もちろん。僕は――」  自分の名前を言おうとしたが、僕の口はとても滑らかに僕ではない者の名前を告げた。「ミノレだ。君は?」 「あたしはクロルよ」と彼女は言った。 ○○○  クロルはよく日に焼けた肌をした黒い髪と瞳の女の子だった。そのシルエットや知らない男に対して警戒をしていない様子からは小学生くらいの年齢に見えるが、それにしては体が大きい。発育が良いのだろうか?  違うということに僕は気づいた。僕の方が小さいのだ。僕の手足は細く、成人男性の筋肉を伴っていない。クロルと会話した声は高く、変声期前であることを感じさせる。あるいはボーイ・ソプラノの歌声をしているのかもしれない。 「ねえ、ミノレはいったいどこから来たの?」  好奇心の塊のような目でクロルが訊く。しかし僕には答えようがなかった。こちらが教えてほしいくらいだ。 「よくわからない。そもそもここはどこなんだ?」 「ここはベスの村よ。あんた、街のひとだったんじゃないの?」 「どうしてそう思うんだい?」 「だって立派な服を着ていたもの」  クロルはそう言い、いたずらっぽく笑った。僕は自分の服装を確認してみたが、どう見ても質素な身なりをしている。服というより粗末な布きれを適当に被せただけと言った方が納得できる。 「これが立派な服?」 「もちろん違うわ」とクロルは言った。  街で死人が出た場合、多くは街の外の適切な場所に捨てられるものらしい。よっぽど身分が高くでもない限り、火葬も埋葬もされることはない。  僕はそうした場所に、しかし死体にしてはずいぶん立派な服を着て打ち捨てられていた。それがたまたまそこを通りがかったクロルたちの目に留まり、その立派な服を回収しようと近寄ってみたところ、僕は生きていたというわけだ。 「ほとんどあんたは死んでいた。でもあたしにはちょっぴり生きてるようにも見えた。だから剥ぎ取った服の分け前をもらわない代わりにここまで運んでもらって、こうして様子を見てみたの」 「なるほどね」 「だから悪いけどあんたの服は戻らないわ。マンバたちにあげちゃったの。取り返そうとはしない方がいいと思う」 「そんなことは考えないよ」 「それならいいけど。それから、これが一番大事なんだけど、あんたを拾ったのはあたしなの。だから、あんたはあたしのものだからね。そのつもりでいて頂戴」  クロルは胸を張ってそう言った。小学生くらいの見てくれの女の子が僕に対して支配宣言のようなことをしたのだ。公園で遊ぶごっこ遊びのようで、とても微笑ましい光景だ。  服従させるということは、面倒を見てくれるつもりがあるのだろう。この理解不能の状況下でどうやら子どもの体を与えられ、僕はこれからどうしていいのかまったくわからない状態だった。おそらく道端に放置されたら僕は飢え死にすることだろう。 「悪くないね」と僕は言った。 「そう? ちゃんとわかってるの?」 「もちろんだよ。なんならご主人様とでも呼ぶことにしようか?」 「呼び方は何でもいいわ。あんたがあたしのものだってことがわかってれば、それでいいの」 「なるほどね」と僕は言った。  どうやら夢とは言えないこの状況で、僕は今日と明日を生きなければならない。明日になればまたその今日と明日を生きなければならないだろう。このクロルの申し出は、僕にとって、かえってありがたいもののように思われた。僕の支配主は女の子だ。ひょっとしたら近い将来どうとでもできるような関係性になるかもしれない。  しかし僕はクロルに対して利益でありつづけようと自然に思った。僕はどうやら現在医師ではないし、この世界に医療倫理の提唱者はいないかもしれないが、勝手に誓うことにした。彼女に対して利すると思う行動を選択し、少なくとも害になる行いをしないのだ。  なぜなら彼女は自分に隷属させるつもりの僕に対して体を覆う布を与え、今こうして小さなパンと器に入った汁物をくれたからだ。薄い味の具のないスープのようなものに、硬くてそのままでは噛めないパンを砕いて浸して口にした。飢えた舌には言葉のいらない美味しさだ。 「よろしくね」と笑うクロルを見つめ、僕はゆっくり頷いた。  
/32ページ

最初のコメントを投稿しよう!