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わたしは淡々と続けた。
「け・・・は景気がよくなる・・・結婚式、どうだね?」
彼は黙ったままじっとわたしを見つめていた。
「る・・・ルノワール、ルネッサンス」
わたしが言い終えると彼は少し、落ち着かないのかまた手錠の鎖と鎖を
こすり異音を奏でた。
「さあ、やってみたまえ。ゆっくりでいいから。と、け、る、の
どの文字から始めても大丈夫だ」
彼はうつむきながら考えている様子だったが、しばらくしてから
話し始めた。
「では・・・と、年を重ねる・・・け・・・健康に」
彼はそこで話すのをやめ、何かと葛藤しているように眉間にしわを
よせた。
わたしは彼を不憫に思い、たしなめた。
「いいじゃないか・・・その調子だよ。続けられるかい?」
「る・・・るは・・・留守宅を狙う!」
「だめだよ。それはいけない」
「なぜだ・・・なぜいけない!」
彼が興奮していく様子を見て不安になったため、看守に目配せをしたが
この男は無表情でドアの前で仁王立ちになり、こちらの様子を傍観していた。
やがて、患者Aはゆっくりと話し始めた。
「先生は前にわたしに聞きましたよね?なぜ、酷い殺人なんか犯した
んだね・・・理由はと・・・」
「ああ・・」
「わたしはこう答えた・・・理由はない、殺したかったから殺したんだと。
生まれつきなんだ・・・この治療も同じだ・・・美しい言葉など連想でき
ない!殺しのことしか頭に思い浮かばないんだ」
「だからわたしが一緒に・・・」
彼はわたしの言葉をさえぎり興奮した口調で言った。
「生まれながらの殺人鬼なんだ!誰にも治療なんかできやしない!」
わたしは話しかけるのをやめて少し彼の様子を見ていた。
しばらくの沈黙のあと彼は最初の無言でうなだれた状態に戻った。
わたしはゆっくりと切り出した。
「生まれつき殺人者など存在しないよ・・・必ず君は変われる。わたしは
生涯をかけて付き合うことを約束する」
彼はその言葉にまたぴくりと反応した。
うなだれたまま、彼は言った。
「約束・・・」
彼とやっと心が通じ合えるかもと期待を胸に力強く返事をした。
「そう、約束だ」
彼は顔を上げてあの魂のこもっていない目でわたしをしばらく見つめて
言った。自身たっぷりに・・・
「先生?それは無理だ・・・」
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