春の激震

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有賀に関すると解って居たならば、里谷刑事を頼りはしなかった。 嫌、あの脳裏に響く声を感じたならば、協力を仰ぐべきではなかったと今は思う。 それから、桜花部長から最近の身の回りの事を聴かれた木葉刑事。 然し、思い当たる節も無かった彼からは、有賀の何も聴かなかった。 午前10時50分くらいに、木葉刑事への事情聴取は終わる。 この時、隣の視聴室には警察庁の公安部関係者も来ていた。 有賀は、警察の敵。 存在が判るだけで、ピリピリと張り詰めた空気を警察機構全体にもたらす。 解放されて、班に割り当てられた部屋に木葉刑事が戻ると。 「木葉、どうしたんだ? 刑事部長が、お前に聴きたい事が在るって…」 篠田班長に言われる木葉刑事が部屋を見渡せば、其処にはあの嶋本主任も居た。 「なぁ、木葉。 何で、俺達が捜査から外された?」 席に向かう木葉刑事へ、嶋本主任も問い掛ける。 やはり、皆は事実を知らないらしい。 ホロ苦く笑う木葉刑事。 「嶋本さん、この一件は忘れて下さい。 上が、捜査します」 この返しで、里谷刑事は直ぐに察しが付いた。 「有賀…」 拳を握る。 嶋本主任を含む他の皆が、有賀の名前で固まった。 直ぐに諦める様に首を振る市村刑事。 「ダメだ、有賀だけはもう要らない。 上でも、自衛隊でも、誰でもいい」 織田刑事も嫌な顔をして。 「有賀なんか、日本に来るなっ。 尻尾巻いて逃げたんだから、リベンジなんか面倒だよ」 と、湯飲みを手にして顔を背けた。 嶋本主任も、有賀が関わると知るや外されても納得する。 皆が、有賀の事を嫌がる。 黙る里谷刑事以外が、別の話題に逃げた。 嶋本主任も部屋を出て行き、待機番として緩い時間を過ごそうとする。 処が、この時。 都内の郊外となる或る場所に在る建物へ、警察庁公安部の捜査員が踏み込んだ。 防犯カメラの映像より、有賀らしき人物の居場所を特定した。 が。 「居ないっ」 「逃げたか、クソっ!」 その古い空き家は、蛻の空だった。 だが、ついさっきまで誰かが居た、そんな感じが残っている。 “何処からか、情報が漏れた?” こう想像した捜査官も居た程に、その痕跡は真新しいものだった。 警視庁より、瓶内鑑識班が証拠採取に出動する。 だが、警視庁の捜査一課は、その捜査に一才ノータッチで。 昼間、外に食べに出た里谷刑事とは違い、食堂に行く木葉刑事。 すると、あの(かすがい)班長が居た。 食券を買う場所に向かえば、鎹班長は二千円を販売機に入れて。 「木葉。 お前の勘は、まさに天賦の才だ。 あの有賀を、またしてやったな。 犯罪を起こす前に警察が有賀を追い詰めるのは、今回が初だぞ」 と、ボタンを押して、出てきたカツカレー定食の食券を木葉刑事に渡す。 「あ、鎹さんのじゃ…」 だが、もう自分の食券を買って在った鎹班長。 「よく遣った。 有賀に対する対価としちゃ安いが、それを進呈するよ」 今、カツカレー定食は2つ在る。 既存のカツカレー定食と、スペシャルカツカレー定食だ。 関東の有名なブランド豚肉を使ったカツが乗り、公務員の食堂にして既存の品より500円も高い、提供数限定のスペシャル。 それを奢る鎹班長だから、よっぽどに嬉しいのだろう。 昼食がタダになってしまったと、スペシャルなカツカレー定食を厨房へ頼む時に。 「よう、木葉」 聞き慣れた声がする。 「あ、片岡さん」 脇に目を遣れば、片岡鑑識員が来ていた。 「有賀に、カウンターパンチを遣りやがったな」 有賀が犯罪をやらかす前に有賀を察知したならば、これは警察でも初だと喜ぶ片岡鑑識員。 「“カウンターに成れば”、祝杯でもしますか?」 「当然だ。 これで捕まりゃ、有賀もお前が鬼門だったと嘆くだろうよ」 「そうだと、イイですね」 「そうともさ。 警察庁の公安サマには、是非に頑張って貰いたいね」 二人して限定のカツカレーを持って、空いた遠くの席に向かう最中。 「あら、木葉刑事」 美田園管理官が来て居て、此方にやって来る。 あの議員と検事確保の一件で、美田園管理官は忙しい。 少し疲れているのか、やや“氷結の無表情”が溶けている。 「管理官。 例の一件、御疲れ様です」 だが、無言で頷くまま顔を近付けて来るなりに。 「有賀に、また迫ったらしいわね」 美田園管理官が男性へ、自身のパーソナルスペースを越えて近付くことすら珍しいのに。 目の前まで来て、小声ながらに話し掛けて来た。 「まぁ、みたいッス…」 恐縮して苦笑いした木葉刑事だが。 「警察庁の公安で、有賀を捕まえられるかしら」 「大丈夫じゃないッスか。 一応、公安サマですから…」 「私としては、貴方や里谷さんを含めた警視庁の刑事の方が、確保する可能性が有るって思うわ」 とんでもない事を目を見て言われた。 微笑すらして見せた美田園管理官は、 「じゃ」 と、食券を買いに向かう。 食堂に入って来た時よりも、数分後の今の方に華が見えた彼女で。 木葉刑事も、何だか誘惑された気分に成った。 間近に居て、総てを聴いていた片岡鑑識員は、ニヤっとして。 「期待十分だな、おい」 だが、木葉刑事の方が苦い顔をし。 「冗談は止めて下さいよ。 有賀に敵うほど、自分は強く無いですよ」 空いた席に座る二人だが、片岡鑑識員はソースを取り。 「お前一人に、奴の対処なんかさせねぇよ」 カツにソースを掛けてから。 「アイツをとっ捕まえるならば、警察全部が相手よ。 お前が炙り出し、里谷や仲間が確保だ」 と、カツを喰らう。 「相手は、あの有賀ッスよ」 頷く片岡鑑識員だが。 口を空けると。 「もう、犠牲は要らねぇ。 野郎の身柄だけ確保すりゃイイさ」 カレーを一口、二口した片岡鑑識員は。 「美田園さん・と、俺も同じよ。 ・・お前なら、遣れるかもな」 こんな期待を掛けられても、本気で困る木葉刑事。 有賀には、本心から関わり合いたく無い。 尾行を暴いた先に有賀とは、自分の能力を呪いたいほどだ。 高いスペシャルなカツカレーを食べたのに、味がどうも旨く感じる事が出来ない。 胸中に沸き上がる不安を口にしたくなくて、黙々と食べた木葉刑事。 その頃、午後の1時過ぎ。 タクシーに乗って居る有賀の姿を、東名高速道路に見付ける事が出来る。 一路西へ、神奈川県を過ぎ様としていた。 窓の外の晴れ間を見る有賀の顔は、足柄の景色を見ても非常に怖い。 (何故だ、何故に直ぐバレた? 尾行をする者が素人だったからか?) 木葉刑事の事を考える有賀は、ビジネスバックに手を遣った。 バックの中には、何故か木葉刑事の経歴情報が在る。 だが、所々に記入が抜けた欄が在るのだ。 (奴の情報の全てが集められないなど、何故に? 高が、警視庁のヒラ刑事だぞ) 今、この有賀は焦って逃げている。 警視庁・警察庁の公安から追われていた。 公安捜査官が潜伏先だった空き家へ踏み込む少し前に、逸早く情報は貰ったからこそ捕まらずに済んだ。 だが、まさか。 万全の下準備をして密入国をしたのだ。 それなのに、全く狙いを達成せずして逃げる事に成ろうとは。 (尾行を始めた時に、直ぐにバレただと? 一刑事に、そんな直ぐ尾行が判るか? もしかしたら、警察庁の誰かが絡んでいるのか?) この有賀は、お訊ね者となる最初の、“巡査部長殺害”の時こそ警察に追い詰められたものの。 木葉刑事に関わるまでの長きに亘り、完璧に警察の捜査の数歩先を行っていた。 事件の犯人が自分と判る頃には、国外に脱出しているのが当たり前だった。 だからこそ、木葉刑事を殺害する目的で日本に来たのに。 目的を達する為の下準備をしようとしてこの体たらくは、彼のプライドを激しく傷付けた。 (何者だ。 アイツは一体、何者なんだ? それに、あの・・あの時の紅い眼はっ、何だっ!!?) 苛立ち力むと、背中に鈍い痛みや痺れが走る。 里谷刑事に打ち込まれた特殊警棒の一撃が、銃弾を受けた古傷の様に痛む。 だが、それ以上に、弁護士を殺害しようとして、あの雑居ビルにて木葉刑事に阻止され。 屋上で彼と対峙した時に、紅の光と闇色を合わせた不気味な瞳を見て恐怖を抱いた。 その恐怖は、有賀のこれまででも初めて味わう恐怖。 その恐怖に心が脅かされ、今後に支障を来すと感じ。 リベンジで東京に来た。 (クソっ、今回は退くしか無いな。 海外での“暗殺依頼”《しごと》が来ている。 来年までは、熱りを冷ますしか無いか…) 不意を狙って来たのに、逆に不意討ちを喰らった。 こんな不覚、有賀でも初めてだ。 仕事の相棒に裏切られた事は有っても、今回の衝撃ほどでは無い。 (木葉、覚えていろ。 何れ、俺が殺してやるぞ) 何十年ぶりに、個人的に個人を本気で殺そうと思うに至った有賀。 裏切りの仕返しだの、口封じだの、仕事や自身の保身の為ではない。 純粋に、彼を殺害したく為ったのだった。
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