時が満たりて凍蠅が葬列を為せば、埋もれた罪が時効の天秤にて計量(はか)られる

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時が満たりて凍蠅が葬列を為せば、埋もれた罪が時効の天秤にて計量(はか)られる

       1 3月中旬。 晴れ間が3日続いた後、冷たい雨の朝だ。 都内を蠢く大勢の人は、マスクをしないと吐息が白くなってしまう様子に、寒波の寒さを実感している。 警視庁に出勤して来た木葉刑事は、班に宛がわれた部屋に向かう為、廊下を歩いていた。 その時だ。 何の前触れも無いまま、一つの窓の前でゾクゾクと寒気を覚えた。 (ん?) ふと、違和感を覚えた方を向くと。 「蝿・・か」 窓の隅に、黒い蝿が居る。 廊下を人が歩くのに、蝿は動かずにジッとしていた。 (もう3月だってのに、今日の寒さはまだ真冬みたいだもんな。 蝿も凍えて、動けないか) 故郷では、真冬に竈近くの板の裏に、ゴキブリだの蝿を見た事を思い出す。 大抵、冬眠をしない虫は、越冬が出来ずして死ぬが。 自宅の竈の近くに居る奴は生き延びる。 然し、目の前に居る蠅は、どうも気味が悪い。 (ふぅ。 何か、今日は事件に当たりそうな気がする。 この蝿、誰かの霊気を纏っている。 これも、予兆かな) 何故か、ジワジワと霊能力が覚醒して居る。 この廊下を行く霊も、視ようとすれば全て視えてしまう。 また、強い念を放つ霊は、その憎愛悲哀の念から否応無く視えている。 その霊が、警察の扱う事件に関係して視えているだけなのか。 寧ろ、恨みを抱く誰かを求めているのか、それすらもうっすら判り始めていた。 例えば。 「よぉ、木葉」 知った声を聴いて。 「市村さん、御早うございます」 「おう」 出勤してきた市村刑事。 だが、彼の背後にモヤみたいな女性が居る。 “私じゃ、ダメですか? 私、貴方の為なら何でもするのに…” 30代の愛らしさが在る女性の念が、市村刑事の後ろに居た。 (愛して貰っても、一緒に成りたく無い・・か) それを言わずに、彼と肩を並べて部屋に向かう。 部屋には、篠田班長、飯田刑事のみが居た。 本日9時14分。 死亡事案についての捜査を担当する事になる篠田班。 現場は、北千住と云う。 「おいおい、今日は3人しか居ないんだぞ」 事件が回されるとは、全く思って無かった篠田班長。 だが、入電が来て。 篠田班長の持つタブレット端末にも出動命令が入った。 木葉刑事達は着替え等の入ったバックを持って、庶務課より車を借りて。 千住署に設置された捜査本部に向かった。 午前10時13分。 篠田班が捜査本部に入って行く。 慌ただしく動く警視庁や警察署の職員。 集まる刑事達の中へ、篠田班も入る訳だが…。 木葉刑事が会議室に入ると。 「お早う、木葉さん」 前列から言われた木葉刑事。 とても気品の在る、大人びた女性のややロートーンのヴォイス。 (あ~らら) 郷田管理官の横に、久しぶりに見る人物がいた。 「お早う御座います。 九龍理事官」 「久しぶりね」 気さくに木葉刑事へ声を掛けるのは、警察官の女性用制服に身を包む。 前髪が顎位に長いボブだが、サイドやバックは少し短くも、柔らかいウェーブの掛かるボリューム感を残したショートカットをし。 抜ける様に白い肌をした中年女性で、女性だけの歌劇団で男役を務める女性俳優の様な。 そんな雰囲気を醸す堂々とした人物。 横に居る郷田管理官が。 「木葉刑事。 今回は、木田一課長が来れないの」 「何か、一課長も大変らしいッスね」 席に就く篠田班長から。 「奥さんのお義父さんが亡くなり。 その葬儀の前後に立て続けて厄介な事件だ。 あの三宅議員と検事の事件を皮切りに、な」 「班長。 一課長も休まないとヤバいッスよ」 「本当だ。 今回も、サッサと片付く事件ならイイがな」 其所へ、望月主任が入って来た。 「もう、全員揃ってますか」 九龍理事官が頷き返す。 「望月主任と進藤主任が宜しければ、何時に始めても構いませんよ」 頷く望月主任で。 「空いていたと聴いて、魚住参次官に篠田班を頼んだ。 木葉、飯田、市村、頼むぞ」 本日は、この3人しか居ない。 里谷刑事は、本日は特殊警護班に参加し、警視総監の護衛に着いている。 明日一杯までは、合流が出来ないらしい。 また、八橋刑事はサイバー対策室の欠員の穴埋めに駆り出された。 織田刑事は、以前に属していた所轄で、同僚だった警察官が病死したと云うので、本日は休み。 如月刑事は、奥さんの実家の東北は青森県に行っている。 第一子を身籠ったので、報告と帰郷を兼ねて今日より3日は休みだ。 何故、手数の少ない篠田班に望月主任は頼ったのか。 また、以前に赤ん坊の事件で組んだ、所轄の八曽刑事と女性刑事。 それに加え、今年で定年と云う松原刑事も応援で来て居た。 さて、捜査会議が始まる。 望月主任より。 「本日、午前6時27分頃。 北千住駅から南東に少し行った寺の敷地内に於いて、女性の死体が発見された。 直ぐに救急と警察に連絡が入り、救急隊員より死亡が確認された。 其処に、我々が臨場。 臨場した監察医の意見では、頭を何か固いもので殴られたと。 だが、周囲に被害者が頭をぶつけた様な痕跡は無く。 また、現場に残された被害者の血液が見た目に少なく。 血痕を頼りに周りや境内を調べると、寺の前辺りに大量の血液が在った。 遺体が動かされたのは明白だ。 そこで本件は、殺人を念頭にした捜査する運びと為った」 その話の間、後列では初動捜査に立ち合った刑事より。 (ありゃ~殺しで間違いない。 頭蓋骨の天辺が粉々だった) (なら、何か固いもので殴られたってか?) 然し、その間近に座る八曽刑事へ、以前とは違い。 同じ警察署から参加する女性刑事が。 (八曽さん。 あんな場所で殺しって、何かヘンじゃ在りませんか?) (フン、それだけじゃねぇ。 犯人はそれなりに力の有る、背の高い奴だろうよ) (背の高い? 何ですか、それ) (脳天の骨が粉々ならば、何か固いものって云うだけじゃ粉々に成らねぇよ。 それに、ちょっとの身長差ぐらいじゃ、殴るにしても斜めの角度に成る) (あ、なるほど) (段差を利用したとか、何かを落下させたってならば、身長差も必要は無いだろうが。 境内の段差なんか使われて無いってならば、犯人には身長が必要と成る) (た、確かに…) 現状には、被害者を特定する目立った遺留品や犯人の存在を示す遺留品も無く。 また、目撃者も無い。 殺害されたのは、昨日の夜8時頃から前後2時間内と思われる。 寺の住職が自宅に帰る際、その敷地内を通り車へ。 その時には、遺体など無かったとか。 だが、現状の捜査経過を聴く木葉刑事は、この事件に何か因縁めいた気配を感じる。 それは…。 (ぐぅっ、何だ・・この強い怨念を何重にも纏う被害者は。 遺体の顔写真を見て、黒く纏わり憑いた怨念が、遺体から立ち上るのが視えるっ) “憎い・憎いぃぃっ、憎いっ!” 沸き上がる声は、獣の様な狂った女性のもの。 だが、その中に。 “みつ・け・・てぇ…。 おね・・がぃぃ…” か細い。 それは、擦り切れた細い布の様に、か細い声だ。 これも、女性の声に聴こえる。 その他にも、老人や老女など。 憎しみや怒りに狂う呪詛が聞こえて来る。 木葉刑事の身体には、強い霊気を感じた時の寒気が走った。 (この事件は、何かとんでもない…) 広縞の事件と怨念のインパクトがだいぶ似ていた。 さて、先ずは基本捜査から始まる。 現場周辺の聴き込みの徹底と、防犯映像の分析をする事に。 例のAIに由る追跡は、今や有賀と他の事件に占有されているも同じ。 警察庁公安部なる方々が、強権を使って独占していた。 九龍理事官は、飯田刑事と市村刑事の二人を軸に分け、その捜査を分担させて。 集まった所轄の刑事の9割を2分割し。 その双方の捜査へ割り当てる。 だが、残された木葉刑事に到っては、九龍理事官から。 「木葉刑事。 貴方は、私に付き合って頂戴。 検視に立ち合うわよ」 いきなりの御指名を受けた。 「自分が、ですか?」 頷く九龍理事官。 「井口さんからの御指名です」 彼にしては珍しく、不可解さを表情に出して頭を掻いた木葉刑事。 九龍理事官の云う井口氏とは、警察病院にも席を置いて勤める内科医で。 法医学者にして、解剖学の権威でも在る。 まだ40代だが、若い3人の女性監察医に仕事を任せて、最近はあまり司法解剖はしないと聴いていた。 (井口先生が俺を…。 珍しいな) 木葉刑事と井口医師は、木葉刑事が警視庁の刑事課に来た頃に大変な事をした。 それは、或る殺人事件を担当した時に、木葉刑事は検視に立ち合った。 その際、幽霊から得た情報を口にした。 然し、井口医師もその道の権威としての自負が在ったのか。 その指摘を簡単な理由を付けて無視したのだ。 木葉刑事に指摘されなければ、井口医師も違った反応だったのかも知れない。 処が、警視庁に来たばかりの木葉刑事に、また妙な噂が付き纏うと聴いていた。 “自分は騙され無い” こう彼は思ったのか。 井口氏も、木葉刑事を疑ったのかも知れない。 だが、その事件の結末は、警視庁でも密かな語り種だ。 木葉刑事の指摘の事を聴いた飯田刑事が、篠田班長と当時の係長に鑑定を打診。 捜査が膠着した為に、当時の色眼鏡をした一課長が鑑定を頼んだ。 その指摘で挙がった証拠が、殺人を立証する事に成る。 この後に、どうして木葉刑事の指摘が的を射ていたのか。 井口医師は問題視し。 その話を聞き付けたあの桔梗院弁護士が、犯人の弁護人として公判で木葉刑事を参考人として呼んだ。 不正を疑った訳だ。 ま、遺体に付着した証拠は、被告人が付着させた。 不正を疑うにしても、木葉刑事がその偽の証拠となる物を購入した事実が無かった。 疑いを立証する事実は何一つ無く、犯罪は立証された。 この時に桔梗院弁護士は、彼にして完全なる敗北をした。 木葉刑事と桔梗院弁護士の確執は、こうして勝手に深まった。 一方、監察医として警察幹部の信頼を得ていた上に、法曹界や警察機構に幅広く顔の利く井口医師。 不満を持つ井口氏の事を考慮し。 “木葉刑事は、司法解剖には一切立ち合わせない” そんな暗黙の了解が出来た。 だが、それから半年ほどして…。 鑑識の片岡主任が、木葉刑事を指名して検視に呼んだ。 担当者の井口医師の怒りは激しく、その当時は解剖医師に成り立てと成る〔角谷 沙椅〕《つのや さい》と云う女性監察医に、検視から解剖までを丸投げした。 当時20半ばの角谷医師は、異例の事に驚いてしまう。 然し、その検視の様子を井口医師は観ていた。 木葉刑事、片岡鑑識員は、角谷医師に説明を受けながらも、微細な証拠を見逃さずに立ち合った。 その当時を振り返る丸顔の角谷医師は、 “木葉刑事は、見えない何かに教えられているみたいだった…” と、井口医師に回想した。 そして、木葉刑事と井口医師は全く会わなく為った。 今回の邂逅は、それ以来に等しい。 立ち上がる刑事達は、それぞれ集まって出て行く。 防犯映像を集める区分け割もされていて。 飯田刑事は、聴き込み。 市村刑事は、防犯映像の方だ。 さて、会議室を出ようと資料を纏める飯田刑事に、市村刑事が近寄る。 (なぁ、飯田さん) (どうした、市村) (あの九龍理事官って、木葉に偉く優しい。 どんな関係なんだろう) 市村刑事に言われてか、木葉刑事と九龍理事官を見た飯田刑事。 木葉刑事を連れた九龍理事官が出て行く。 その様子を見た飯田刑事が。 「鴫じゃないが、惚れてるんじゃないか?」 ヒソヒソ話を辞めた彼。 話を聴いて下らなく、思わずニヤけた市村刑事。 「まさか。 地位が違うし、エリートとヒラ…」 言っている最中に、飯田刑事の真面目な表情を見て口が止まる。 「市村。 お前は、まだ知らないだろうが。 木葉を警視庁に引っ張ったのは、あの九龍理事官と公安部の桜花部長だ」 「は、あ・・あ?」 「まだ係長の頃の九龍理事官と、警視庁公安部の係長だった桜花警視だ。 木田一課長も木葉を知ってはいたが、人事に意見を出したのは二人らしい」 「本当に、か?」 「理由は良く解らないが。 九龍理事官と桜花部長だけは、木葉に優しい。 何でか、な」 「飯田さん。 その理由も是非に知りたいよ」 「何だ、九龍理事官も狙い目か?」 「そりぁ~、あんな美人だ」 聴き込みに向かう為に、部屋を出る飯田刑事。 その後を来る市村刑事へ。 「市村」 「ん?」 「お前って、突き抜けた美人には人気が無いのな」 「な、何だよそれ、飯田さん」 「そのままさ」 大きな含みを感じる物言いで、市村刑事は拗ねた顔をする。 一方、会議室では。 資料を読み込む篠田班長へ、郷田管理官が。 「篠田主任」 「あ、はい?」 「木葉刑事を警視庁に引っ張ったのは、本当に九龍理事官や桜花部長なんですか?」 「あ、はい。 私は、桜花部長から木葉の存在を聞きまして。 ま、飯田の他に誰か欲しいと木葉を…。 飯田が来る条件は、木葉の入る班と云う事でしたんで…」 話されても、納得が行かない郷田管理官。 だが、今は“そうか”………と頷くのみ。 その頃。 九龍理事官を後部シートに乗せた木葉刑事は、警視庁職員の運転する車の助手席に座り。 飯田橋に在る警察病院に向かう。 今回の司法解剖は警察病院の一角、完璧な設備の整った場所で行われる。 運転席に座る職員の隣、助手席に座る木葉刑事。 車が出されるや。 「理事官。 何で我々が検視に? 進藤さんが立ち合うんじゃないですか?」 「その予定だったけど、進藤主任は別の遺体に立ち合うみたい」 「別の?」 「そう。 ホラ、貴方達が解決したSNS炎上の一件、在ったでしょ」 「あ、はい」 「あの時に、日ノ出署は通り魔事件も抱えてたのは、覚えてる?」 「はい。 まだ犯人が捕まって無かった筈かと」 「そう。 で、その犯人らしき人物が、さっき死体で発見されたみたい」 「うわぁ、まさか復讐か?」 「さぁ。 でも、進藤主任も腰を抜かし掛けたみたい。 だから、立ち合いを私に」 「九龍理事官は、立ち合いの資格も在るンですか」 「まぁね」 走る車内で、窓を眺める木葉刑事。 「そう言えば。 九龍理事官は、何で理事官に? 警察庁に上がるって聞きましたが?」 「イ・ヤ・よっ。 あんな面倒臭い伏魔殿みたいなトコロ。 私は、現場が1番イイの。 一生、理事官に居座ってやろうかしら」 「何だか発言だけ聴くと、業憑くババアみたいッスよ」 「何とでも言って~。 権力が大好きな警察庁のお偉方に喜ばれる、飾った花に生けられたくないの」 「さいですか」 「さいです」 九龍理事官の物言いを聴く運転手の男性職員は、普段の冷静沈着な彼女ではないと察する。 一方、九龍理事官からも。 「貴方も大変だわね。 面倒臭い噂ばっかり立てられて。 さっき、所轄から応援で来た新任刑事に言われたわ」 “一課の木葉刑事って、不正をするんですよね。 私、見張りましょうか” チョコボールの入った箱をポケットから出した木葉刑事。 「すいやせんね。 ご迷惑を掛けます」 「あら、御菓子? 私にも、頂戴」 手を出して来る九龍理事官。 「へい」 チョコボールを彼女の手に幾つか乗せた木葉刑事だが。 落とさない様に手を動かす九龍理事官が。 「郷田さんがね、その新任刑事に言ったの」 “無駄な事に気を遣うより、必要な気を遣って頂戴。 事件を早く解決してくれた方が、私としては有り難いの” 「ってね。 郷田さん、引き取った赤ちゃんが風邪気味で、心配なんですって」 こう言った理事官は、チョコボールを摘まんで口に運ぶ。 「でしょうね。 最近、漸くハイハイが始まったって聞きました」 「貴方・・変わってるわ~。 あの、郷田さん・・・を、ああも変えるんだから」 口にチョコボールを入れながら、モゴモゴ話す九龍理事官。 こんな九龍理事官を初めて見た職員は、秘密を知ったみたいでドキドキする。 普段の九龍管理官は、美人でも女性らしさを見せる事が無い人物だからだ。 一方、木葉刑事は然して気にもせず。 「そう言えば、理事官の席って増えたんですか? 普通、理事官の席って二人でしたよね?」 チョコボールを食べきる九龍理事官。 「いえ、私は暫定的。 でも、小山内さんも、後2年で定年だし。 八重瀬さんも同じ。 八重瀬さんは、来年度で定年したいみたいだから。 其処まで居座るつもりよ」 「だったら、刑事部長に言ってみたら如何で?」 「木田さんにも、刑事部長にも、この事は言って在るわ。 “伏魔殿には行きたく在りません”、ってね」 大人の女性の色香がそのまま声に成っている様な九龍理事官。 鴫鑑識員とはまた少し違う色気・艶美な女性だ。 その彼女が、一課のヒラ刑事となる木葉刑事と仲が良いのは不思議が過ぎる。 運転をする男性職員は疑問が湧きまくり、今にも口を開いて質問をしたく為った。 午前11時50分頃。 東京飯田橋。 駅から伸びる新しいアーケード街の途中に、警察病院が在る。 警察病院の本棟の地下となる場所に、アーケード街のフードコートが在る。 木葉刑事は3回も入院し、篠田班長や里谷刑事などが何度も訪れた。 警察病院へは、関係者専用の入り口から入った木葉刑事と九龍理事官だが。 「あ、確かフードコートの一部の割引きクーポン、ネットのクーポンサイトに来てたな」 一緒に歩く九龍理事官が。 「私、まだ行った事ないのよ。 お昼、其処で済ませていいかしら?」 「下っ端は、上に従いますよ」 司法解剖が行われる別棟に向かった九龍理事官と木葉刑事。 大窓の様な壁が並ぶ、ラボラトリー前の廊下を通り掛かると。 第一解剖室では、もう進藤鑑識員が着替えて入っていた。 あの若い坂野監察医が対応し、中年男性の遺体と対峙している。 「九龍理事官。 あれが・・噂の通り魔らしき人物の遺体ッスね」 「捜査本部の担当は、此方と同じく郷田さんだから。 彼女も、此方の検死が終わったら、今日は日ノ出署に行かないといけないかも」 「そう言えば、此方の捜査本部に尚形係長が見えませんでしたが?」 「尚形さんも、別の班の事件に行ってる。 私がこの事件を担当するから、向こうに掛かりきりで構わないって言ったの」 二人が腕組みして透明な壁越しに見ていれば、死体の外表を視る検視が始まる。 死体は男性、腹部に刺し傷も見えている。 その遺体を視る木葉刑事は…。 (手はゴツゴツしていて、仕事をしてきた人間の手だ。 また、体つきもガッチリしていて、無精な感じは無いな。 それに…) 男性の脇には、年配女性が泣いているのが視える。 白髪で苦労した感じが滲む、母親だろうか。 (この人、どうして刺されたのか…。 また、通り魔の仕業かな) 2人して、検視を眺めて居ると。 「おや、遅いと思ったら」 耳に心地の良い男性の声がする。 少し渋めの声だ。 九龍理事官が先にそちらへ向いて。 「井口先生。 ごめんなさい、遅れまして」 グレーヘアの長身紳士。 それが井口教授だ。 3つの医療系大学学科では、特別講師として。 データ放送だが、解剖学と内科を教える。 その傍ら。 東京の有名な医療専門大学の教授もする、所謂のスーパードクターと称される人物だろう。 「井口先生、お久し振りです。 その節は、どうも…」 頭を下げた木葉刑事。 だが、井口教授もガラス窓みたいな壁の前に来て。 「例の、日ノ出町の通り魔事件の被疑者らしいよ」 並んで見る木葉刑事だが。 「傍目からの素人意見ですが、“通り魔”には見えないッスね」 ぼそっと言った。 井口教授も。 「私も、君と同意見だ。 死者の環境を資料でチラ見したんだがね。 定職に就いていて、真面目に勤務している人物みたいだ。 もし通り魔ならば、何かそうさせる理由が出来た様に思える」 此処で、木葉刑事より。 「進藤さんが此方に掛かるンで、九龍理事官が立ち合うみたいですが…」 井口教授は、木葉刑事に向いて。 「君も、だ。 私の許可が在る」 「外からじゃなくて、解剖室の中で・・ッスか?」 「さ、着替えてくれ。 遺体を待たせても悪い」 「さいですか…」 何がどうなって居るのか、風当たりが変わって木葉刑事の方が気持ち悪い。 (なんか企まれてる感じがするぐらいに、風当たりが変わっちゃったよ) 九龍理事官と二人、専用の青い防護服に着替える。 さて、此方の事件の被害者は、50代の後半から60代と見える女性だ。 少し肥満気味の体型、身長は低めで短い頭髪。 その遺体の周りには、多数の霊が視える。 年配者の老人となる男女が何人も、10人は軽く超えるか。 だが、寧ろ少数だが、眼に着くのは血塗れとなる若い女性の霊が4人ほど。 憎悪を込めた眼差しで、遺体をジッと見詰めている。 また、這いつくばって動く女性の幽霊が1人、中年女性が2人ほど確認が出来た。 だが、何よりも凄いのは、遺体に纏わり着く怨念の強いこと。 解剖室に入った九龍理事官に、木葉刑事が。 「化粧品の香りが強いッスね」 幽霊を視ながら木葉刑事が言えば、九龍理事官も。 「メイクの仕方は、なんだか年配者みたい」 「衣服もハデな感じでしたから、もしかしたら大阪の人だったりして」 「出張費、それで出るなら調べに付き合うわ。 食い倒れしたい」 「それなら、里谷さんを同行にどうぞ」 「彼女なんか連れて行ったら、食費の出張費が認められないわよ」 其処へ、準備をして来た井口医師が来た。 「九龍さん。 この後に被害者の体を開くが、大丈夫かね?」 「井口先生。 被害者の身元は全く解りません。 出来うる限りの情報を。 病理解剖も含めた申請は出して在ります」 「解りました」 被害者を間にして対峙する形で立ち、話を交わす2人だが。 被害者の体を眺める木葉刑事は、何か不思議な念の残る場所を先ず脚に感じる。 そして、助手の女性職員が、木葉刑事の具な観察を気味悪く見た時だ。 「あ~、先生」 「ん、どうしたかね?」 「これ、何ですか、ね」 左足の外側側面を指差す木葉刑事。 その場所を見た井口医師は、皮膚の質感が奇妙に見えたとメスを取る。 「確かに、変だ」 皮膚の表面をメスでなぞれば、粉じみた物が採取される。 「何だ、コレ」 不思議がる木葉刑事だが。 マスクをずらして香った井口医師は。 「ファンデーションみたいな気がする」 「はぁ?」 木葉刑事が間抜けに聞き返すと。 「もしかすると、痣や傷痕が在るかも知れないね。 他人に見られたくないから、ファンデーションで隠す事も在る」 「あ~、なるほど」 「解剖するときに、洗って観てみよう」 木葉刑事と井口医師は、2人で検視をする。 付着物を隈無く採取した井口医師は、頭の傷を観て。 「相当な強い力を用い、かなり固い物で撲られた様だ。 頭蓋骨の頭頂部が砕けている。 これは、撲殺ならば大変な事だよ」 少し離れて観る木葉刑事。 「井口先生。 撲られた割りには、傷の深さに対して、範囲はやや狭い感じがしますが?」 「ん。 いい眼の付け所だ。 この傷を窺うに、ゴルフクラブとか、ハンマーとか、尖端を持つ凶器が使われた様に見える」 「なるほど。 柄の付いた尖端部を持つ器具やスポーツ用品などですね?」 「ん。 ま、詳しい事は、傷痕の形状をスキャンしてみる」 また、被害者の顔をじっくり観た其処で、木葉刑事が遺体へ近付き。 「あの、井口先生」 「ん」 「この、顔の変な模様みたいなのは、何ですか?」 被害者の顔の一部を指差す木葉刑事。 井口医師も、その辺りをじっくり観れば…。 「木葉刑事」 「はい?」 「君、刑事で居れなく成ったら、監察医に成らないか?」 奇妙な話に成る。 助手の女性が、悪い冗談を聞いた気がしたが。 ライトを当てて、角度を変える井口医師。 「非常に判り難いが、これは指紋だ。 メイクが濃いから、綺麗に残っている」 「あ、指紋…。 進藤さんに言って、採取して貰った方がいいですかね」 「ふむ。 確かに、指紋採取に関しては、鑑識員の方がプロフェッショナルだ」 木葉刑事が頷いて、部屋を出る。 九龍理事官も来て、井口医師の確かめる皮膚の様子を眺めると。 「濃い化粧だわ」 「年配の女性ですからね、それも仕方ないだろう」 「指紋、指紋・・あら~~~ホントだわ」 確認する九龍理事官に、井口医師が。 「彼は、観察眼に研きが掛かったみたいだ。 噂の様な不正でも、少し出来すぎだよ」 「あら、先生がそう仰るならば、彼を外に待機させます?」 九龍理事官に言われた井口医師は、困った笑みを浮かべ。 「九龍さん、小言ぐらいは聞き流さないか?」 「あらま。 これは刺々しくなって、御免なさい」 続けて苦笑いの井口医師だが、直ぐに真顔となると。 「処で。 彼は、あの例の、連続バラバラ事件の記憶を思い出してしまったのか?」 思いがけない話が出て、九龍理事官も眼を細めた。 井口医師は、背を伸ばし。 「あの事件の被害者の遺体を、私は嫌と云うほどに観た。 正直、犯人は怪物と、そう思ったよ。 だが、彼はその怪物を追っていたのだろう?」 「はい」 「佐貫刑事の遺体も、古川刑事の遺体も、私が担当した。 あの事件の被疑者と刺し違え様としたとは、聴いて驚いたよ」 「その所為で、彼はまた色々と言われてますが…」 「そんな事は、もうどうでもいい。 不正をする様な人物ならば、そんな馬鹿らしい真似はしないからね」 「確かに」 井口医師は遺体を見下ろし。 「変わった刑事だ。 が、彼に欲は見えない」 言う其処に、進藤鑑識員と木葉刑事が入って来た。 「井口先生、指紋が?」 「はい。 場所は、もう解ってます。 全部で4ヵ所。 指がそれぞれ違っていると思われますよ」 遺体の前に来た進藤鑑識員は、指紋を確認すると。 「木葉ちゃん、やっぱり鑑識員に成ってよ」 「イヤですよ。 片岡さんの奴隷にされそう」 「イイじゃん、それでも~」 「進藤サン。 はい、カメラ」 「粉が先」 同じ班の仲間みたいな二人で、暇な九龍理事官が。 「仲が良いわね。 私も、一緒にアシしようかしら」 恐縮した進藤鑑識員は、慌てて指紋採取を始める。 採取する進藤鑑識員のグチは、連続通り魔の被疑者らしき人物の遺体の事。 通り魔の被疑者が持つ凶器を持っていたので、署長や警視庁の係長と云う捜査陣は、被疑者を確保したと考えているらしい。 助手みたいな事をする木葉刑事が。 「凶器を持っていた…。 でも進藤さん、あの遺体の人物のアリバイを調べて確認されたら…」 「新な被害者の一人になる。 それが、心配なんだよ。 通り魔の背格好に比べると、あの遺体の人物はやや大きい。 郷田管理官も、其処が心配らしい」 「あ~らら」 「木葉ちゃん。 向こうの捜査本部にも来てくれない?」 「体がもたないッス」 向こうの検視は終わったのか、井口医師の再開する検視に付き合う進藤主任。 その後、検視の情報を資料として貰う為に待つ間。 地下のフードコートに行って、持ち帰り用の食べ物を買う九龍理事官と。 付き合わされた木葉刑事。 通行人がいっぱい居る。 その中で、九龍理事官を見た若者のグループが。 「な、チョー美人発見」 「おっ、・・って警官じゃんか」 「あ、このフードコートって、警察病院と一部が繋がってるって聞いた」 「でも、胸もデカくないか」 「警官とデカ、上手い!」 「馬鹿、ギャグじゃねぇ」 「でも、マジで年上のオネエサマって感じは、萌える」 「お前、二股をしてるだろうが」 「フン。 何人居ようが、付き合うだけなら犯罪じゃないね」 言い合いながら駅に向かう若者達。 休日にデパ地下に来たみたいに買った九龍理事官。 荷物持ちにされた木葉刑事は、サッサと車に向かう。 午後2時前。 検視の意見書を貰った九龍理事官は、日ノ出署に向かう進藤鑑識員から幾つか意見を貰って警察署に帰る。 この後は、司法解剖として此方の被害者は体の中も調べる。 死因はハッキリしているが、此方は念のためだ。 車内にて、桃のシェイクを吸う木葉刑事。 九龍理事官は、バニラとマスカットのツイストシェイクを吸う。 「あら。 これ美味しい」 若い女子みたいな九龍理事官。 其処へ、木葉刑事が。 「戻ったら、自分は何を?」 「そうね。 被害者の衣服やアクセサリーの調べの進捗を、鑑識員に聴いて」 「解ったら、向こうから言って来ますよ」 「ね。 何で被疑者は、被害者の持ち物を総て持ち去ったのかしら」 「さぁ。 被害者が何者なのか、少しでも悟られたく無いんじゃ在りませんか」 「でも、全部よ。 ポケットの中まで、全部探った形跡が在ったみたい」 「下手すると、被害者と加害者は顔見知り以上で。 過去に犯罪で繋がってた・・的な」 「なるほど、前に関わりそうならば、確かに何一つとして知られたく無いのも当然よね」 何時でも動ける様に、木葉刑事は持ち帰り用のパンを食べる。 さて、千住署に戻った。 木葉刑事は会議室に荷物を運ぶが、郷田管理官が居ない。 「班長、戻りました」 「どうだ、検視の様子は」 指紋の事を含め、手短に話した木葉刑事。 「班長、郷田管理官は日ノ出署に?」 「おう。 被疑者らしき遺体が出たってからな」 「そうッスか」 そのまま鑑識課に行けば、鴫鑑識員と30代の警視庁鑑識員が、所轄の鑑識員と一緒に作業をする。 科捜研で行う分析以外は、出来る場所で行う。
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