十二歳、春

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 彼の本当の名は知らない。  (たける)が彼について知っているのは、土曜の午後に決まって現れることと、雨の日には鮮やかな緑青色の傘をさすということくらいである。  今日もまた彼は現れた。  いつものように鳥居の下で一旦立ち止まり、少し緊張した足取りで歩を進めるのは、これから願うことへの決意の表れだろうか。一歩一歩、踏みしめるように参道を進む姿を目で追いながら、問いかける。  何を願っているの?  尊の声が彼に届くことはない。そもそも彼には尊の姿は見えないのだから、それ以前の問題とも言える。  マンションの最上階からは、隣接する神社の表参道がよく見えた。  かつては広大な鎮守の森が広がっていた場所に、今ではマンションやテナントビルが立ち並んでいるのだから、神さまも驚きだろう。  バルコニーから見下ろす景色は尊の気に入りであり、二ヶ月ほど前から「彼」の姿を目撃するようになっていた。  正面ではなく、斜めに見下ろす位置であり、彼が拝殿前に辿り着けばその姿は見えなくなってしまう。神に頭を垂れ、祈りを捧げる彼を想像しながら尊も瞳を閉じる。再び目を開くと、元来た参道を歩く彼の姿を捉える。時間にして数分程度。ささやかな背徳的行為は、毎回このようにして幕を下ろす。 「さよなら、イノリ」 「イノリ、今日も来たわね。春休みに入ったから来ないと思ってた」  尊の奇妙な習慣には同席者があった。  隣に立つ姉は、手摺に腕をもたれて満足の笑みを浮かべている。  名前をつけよう、と提案したのは姉だった。彼の行動をふまえて、尊は「イノリ」と命名したのである。 「どこの学校かな。もし、俺と同じ中学だったらどうしよう」 「なくはない話ね。でも、それじゃつまらないわ。考えてみて。ここは駅のすぐ近くよ。週一回、東京から通って来る、ってのはどう? イノリは元々、静岡で生まれ育ったんだけど、父親の転勤で東京に引っ越したの。飼っていた犬を泣く泣く祖父母宅に預けて、様子を見に会いに来る。犬はゴールデンレトリバーがいいわ」 「わざわざ犬に会いに毎週? どんだけ金持ちだよ」 「両親そろって医者とかならアリでしょ」
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