十二歳、春

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 *  目覚めた視界に最初に映ったものは、見慣れた天井の白い壁だった。  奈落の暗闇ではない。朝陽が射しこむ、いつもの、自分の部屋だ。 「あ……」  今しがたの声も、笑顔も、夢とは思えない余韻で尊を包みこむ。寝起きであるにも関わらず、疲れ切った体はすぐには動けなかった。 「なん、で……」  瞳を閉じると涙が頬を伝わった。  知ってしまったからだ。  現実で噛み締めた幸福を、失いたくはないという欲望を。それがあんな夢となって現れたのではないか?  バルコニーから見ているだけで満足だった。何も望んでなどいなかった。あの頃がもう遠い昔のようだ。  力いっぱい握りしめていた拳をほどくと、掌中で硬い何かがころりと動いた。ガラスに似た滑らかな感触が指に伝わってくる。 「葉っぱ……?」  丸みや大きさ、縁の刻み目、そして艶やかな表面までもが本物そっくりである。  尊の手の上で輝きを放つのは、葉の形をした(くろ)()(すい)であった。
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