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― 第二章 ―
『パンドラ』
はるか昔、神々の世のころ。
『地上』が神の手で創造された。
それは複雑で、とても美しいものであった。
さらに神は、この地上の生き物たちの創造と管理を巨神族のプロメテウスと弟のエピテウスに任せることに決めた。
心優しいエピテウスが全ての動物たちに様々な能力を与えているうちに賜物は底を尽きてしまい、最後の人間に贈る物は何一つ残されていなかった。
そこで兄であり監督者であるプロメテウスは、考えた末に天から火を取りそれを与えた。
これにより人間は火を操って日々の暮らしを豊かにする知恵をつけ、『地上』のさまは変わっていく。
それは神々が危機感を抱くほどであった。
そんななか、ゼウスは『女』を造った。
天上で造られた『女』は神々から様々な贈り物をもらう。
それは美であり、
音楽であり、
魅力であり。
心地よいさまざまな事象だった。
最後に与えられたパンドラという名前とともに『女』は歩き出す。
『パンドラ』とは、『すべての贈り物を賜わった女』という意味である。
しかし、全ての贈り物はもろ刃の剣だった。
かぐわしい花の香りも、時には苛立ちを与えるように。
密かな計略の元に贈られた『パンドラ』はエピテウスに与えられて妻となり、そして事が起きた。
触れてはならないとわざわざ戒められたうえで与えられた瓶。
神に仕掛けられた誘惑がゆっくりとパンドラの心を侵していく。
好奇心に負けた彼女は、蓋を取り瓶の中を覗き込む。
解放された途端、世の中のありとあらゆる苦痛と悪しきものが飛び出し、世界の隅々まで広がっていく。
慌てて蓋を閉じてももう遅く、己の過ちに怖れ嘆くパンドラの手元になぜか一つ、残されたものがあった。
それは『希望』、または『予知』だったという。
(『ギリシャ神話』参照)
一方的に強い好意を持たれることに飽き飽きしていた。
誰もが俺に抱かれたがる。
そんなに触れてほしいか。
そんなに孕みたいか。
日本という国は退屈なところだ。
ここではバース特性のある人間が極端に少ない。
通っていた中高一貫校は財産・家柄または頭脳において屈指の進学校にもかかわらず、アルファは全学年あわせても片手で数える程度だった。
見方を変えれば世の中には優秀なベータがそれほど存在するということだが、どんなに優秀でも越えられないのが階級の壁だ。
アルファとベータ。
さらに、ゴールドとシルバー、そしてブロンズ。
生まれ落ちたその時から、立場は決まっている。
従順に従う子羊たちの群。
最初は玩具としてそこそこ楽しめたが、世界が広がるにつれ飽きてきた。
誰もかれも。
なにもかも。
つまらない。
「志村・・・、大我・・・。なんで・・・」
目を大きく見開いて、心底驚いた顔をしていた。
例えるならばまさに、鳩が豆鉄砲を食ったよう、だ。
それでも。
なんて美しいのだろう。
俺の瑛は。
「なんで・・・って。こっちが聞きたい」
思わず噴き出した。
笑いが止まらない。
心が沸き立つ。
たかが子羊のくせに。
どうしてこれほど俺を揺さぶる。
昔はもっと凡庸で、見た目は少し綺麗だけど卑屈で無口で愚鈍な男だった。
退屈だと何度も思った。
だけどどうだろう。
たった数年会わない間に変わっていた。
まるで、青虫がさなぎを経て突然蝶にでも羽化したかのように。
ぼんやりとした春の風景の中、瑛はきらきらと金色の光を放つ。
滑らかな肌、絹糸のような髪、細くてしなやかな肢体。
そして、鶯色にヘーゼルの色素を落としたような神秘的な色あいの瞳にまっすぐ見つめられ、大我は高揚した。
「だって、呼んだだろう?この俺を」
だから俺はここにいる。
お前に触れるために。
吸い寄せられるように、白磁の頬に手を伸ばした。
「あ。大我だ。志村大我。なんでいるかなあ。こんな時に」
耳障りな声と粗野な言葉遣いが、完璧だった世界のすべてを粉砕する。
すると最高の芸術家に創られた彫刻のように神々しい姿を魅せていた瑛は突然、血の通った人間になった。
それはおとぎ話の呪文を解かれた瞬間をつぶさに目にしたような、不思議な光景だった。
あれほど眩しかった彼の輝きは、次第にあいまいになる。
まるで、薄布を頭からすっぽり覆い隠したように。
いつもの、瑛。
地味な、印象の薄い、どこにでもいる男。
あの、別れた日の瑛そのままだ。
どういうことだ?
「やだなあ。ランチ台無しじゃん」
今、この場を台無しにしてくれた張本人を咎めようと振り返ると、男が二人、こちらに向かって歩いてきているところだった。
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