エピソードタイトル未定

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 カードに瑛の近況は一切書かれていない。  あるのは住所だけ。  それなのに、瑛の仕事場の近くの公園に現れた。  それも、絶妙なタイミングで。 「ロマンチックだよね。桜吹雪の中、初恋の人との再会」  まるでドラマの中のように。 「感涙ものの演出だね」  心底楽し気に宮坂は笑う。 「僕が見事にぶち壊してやったけど」  彼は、道化を演じ予定されていた茶番劇を一気にひっくり返した。 「誰にはめられたか大我はよおくご存じだろうから、この後が見ものだね」  怒り狂った獅子は呪術者にとびかかるだろう。 「この際、あいつらを蹴散らしてくれたら万々歳なんだけどなあ」 「・・・そう、うまくいくだろうか」 「だよね。あちらの年の功と執念に、僕たち若いのが付け焼刃程度が太刀打ちできるか、微妙なところ」  瑛の中の時計は、大我と別れた時に止まってしまった。  心の奥の奥に住み着いた冷たいものに支配され、悲しみの中に閉じこもっている。  それを溶かしたいと蜂谷は思ったものの、できたことは一つだけだ。  ただ、そばにいる。  居続けるだけ。  気が付いたら六年も経ってしまった。  それでもようやく、瑛の素の部分のようなものが見えてきたような気がする。  薄いベールの奥の奥の、瑛。  臆病で、繊細で、生真面目で、何よりも可愛いくて優しくて綺麗な、瑛。  目をそらして、俯いて、うっすらと頬を染める瑛を見たくて、何度も何度もからかった。  からかっているふりをして、本音を言う。  なあ、瑛。  薫って呼べよ。  その唇で、その瞳で、俺を呼んでくれよ。  そしたらすぐに飛んで行って、抱きしめて。  絶対お前を離さない。  頼むから、俺を呼んでくれ。 「・・・?」  誰かに、呼ばれたような気がした。 「うん?どうしたの?今の痛かった?」  浅利がちらりと目を上げる。 「いえ・・・」  ここは浅利と看護師と瑛の三人だけだ。  診療室の中はとても静かで、扉一枚隔てた廊下の音すら聞こえてこなかった。 「はい、終わりました。ご協力ありがとうございます」  瑛の指先から少量の血液を採取し終わると、手早く処置を施した。 「午前中のお医者さんのところでも血を抜かれたわよね。ごめんなさい」 「ああ・・・。まあいつものことです。あちらは耳からでしたけど」 「耳?ああ、これね・・・」  すい、と手を伸ばして浅利は瑛の耳たぶに触れる。 「なるほど」  軽く指を滑らせたあと、軽くうなずいた。 「・・・はい?」 「あらごめんなさい。筒井先生って学会でお見かけしたことあるのよね。大先輩だから気になって」 「そうなんですか」 「うん、先生のおっしゃる通り貧血はおおむね改善されたようだから大丈夫かな。今日はとりあえず、蜂谷君のところに泊まってね」  さらりと言われて瑛は面食らう。 「・・・え?」 「あら聞いてない?うわ、どうしよう。私が言っていいのかしら」  浅利が珍しく慌てた様子を見せる。 「何のことですか?」 「夏川君。あなたの部屋、上階の水漏れのせいで今夜は入れないらしいの。家財道具全部濡れてしまったわけではないけど、浴室の天井裏にある水道管の修理を今からやるって連絡が入っていたみたいよ」 「え・・・?いったいいつ、そんな・・・」  ほんの一時間ほど前に蜂谷たちと別れた時、そんな話は全くなかった。  居心地の良い部屋だと気に入っていただけに、頭が真っ白になった。  早くあの部屋に帰りたい。  いや、その前にどの程度の被害なのか…。  これからどうなるのか・・・。  何から考えたらいいのかわからない。 「ごめんなさい、無責任なことを言って。あとは蜂谷君たちにいますぐ聞いてちょうだい。私も詳しいことまでわからないの」 「ああ・・・。そうですね。すみません」 「いえ、こちらこそごめんなさいね」  浅利からの謝罪に、瑛は慌ててその場を辞した。  受付で支払いを終えてエレベーターホールに出た瞬間、携帯電話が鳴る。  画面を見ると、母からだった。 「母さん?」 「瑛、えい、どうしましょう」  出てみると、悲鳴のような甲高い声が耳を突き刺す。 「母さん、落ち着いて」 「瑛!ああ、良かった。あなたどこにいるの」 「・・・?会社だけど」 「瑛、お父さんが、お父さんが・・・」  嗚咽交じりのとぎれとぎれの言葉に気が動転した。 「母さん、父さんがどうしたんだ・・・!」 「父さんが、事故に巻き込まれて大変なことに・・・。とにかく、すぐ降りて来てちょうだい。もうタクシーであなたの会社の下にいるの」 「わかった」  何も考えられなかった。  母のただならぬ声に背中を押され、携帯電話を握りしめてエレベーターに飛び乗る。  地上にたどり着くのを扉の上の表示を睨みながらじりじりと待つ。
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