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けっして騒がしいわけではないが、複数の人たちと空間と時間を共有している事に今更気づいた。
「あ・・・。すみません」
椅子を回転させて姿勢を正し、慌てて頭を下げる。
「うん。まあどうせうちの会社は個人の裁量で動くのが基本だから、本当はどうでもいいんだけどね」
「どうでもいいなら、邪魔しないでくれます?」
蜂谷は椅子にふんぞり返ったまま、装い造形ともに完璧としか言いようのない美しい男をねめつけた。
「ははは、ムリ。だって、面白いんだもん」
ここは蜂谷と瑛が働いているオフィス宮坂。
企業や飲食店などのコンサルタントや企画立案などを行ういわゆるブランディング・プロデューサーという業務を主に営んでいるが、そのほとんどが国内外問わず必ずヒットしたため仕事の依頼がひっきりなしに入り、収益は右肩上がりで繁盛していた。
自分たちは大学生へ入学して間もなく先輩のつてでたまたまアルバイトに入り、卒業後はそのまま正社員に採用され、社内ではもはや中堅になりつつある。
そして今、二人の目の前で優雅に笑みを浮かべているのは社長の宮坂誉(ほまれ)だ。
「あの、そもそもそんな仲良しってわけでは・・・」
瑛は反論を試みた途端に頭をわしづかみにされ、まるで犬を可愛がるようにぐしゃぐしゃと雑に撫でまわされた。
「うわ・・」
いきなり宮坂は両手で瑛の頬を包みながら顔を寄せ、鼻と鼻がくっつきそうな距離でとろりと囁いてくる。
「・・・瑛?」
「・・・はい」
「僕さあ。瑛のこと見てると時々、まるっと食べちゃいたくなるんだよね」
「・・・は?」
ふと、瑛の鼻腔を独特の香りがかすめた。
香水?
いや違う。
いや、違わない。
ベルガモット、ウッディ、クマリン、…。
昔聞きかじった芳香の名前が意味もなく頭の中に浮かんでくる。
「ちょっと、宮坂さん・・・」
蜂谷の声がどこか遠い。
また、だんだんと、意識がどこかに飛んでいきそうだ。
「瑛?」
桜貝のような色を刷いた艶やかな唇がにいと吊り上がるのが目に映り、瑛はなんとかそれに集中しようとする。しかし、どこか夢の中にいるように頼りない。
「はいはいはいはい、そこまでね~」
さらに割って入ってきた女性のきっぱりとした声に、また現実に戻された。
「・・・なに、これ」
まるで、身体と意識が分離しかけたような。
「まずは、ちょっと離れようか」
声の主は、一つ下の階で診療所を開業している医師の浅利(あさり)美津(みつ)だった。
四十も半ばを過ぎたと聞くが、細い首をあらわにしたショートボブにシンプルなパンツスーツ姿がよく似合って三十そこそこにしか見えないくらい若々しい。
「セクハラでマスコミの格好のネタになるわよ、社長」
「そんなまさか。僕にかぎって、ねえ?」
瑛からのんびりと手を放し、宮坂は芝居がかったしぐさで肩をすくめてみせる。
「いいや。まさにセクハラの現場だと思うけど?」
いつの間にか椅子から立ち上がっていた蜂谷が、周囲の同僚たちに視線で同意を促した。
「え・・・」
気が付いたら、注目の的だ。
瑛は思わずうつむいて唇にこぶしを当てた。
穴があるなら即座に入りたい。
「それにしても、いつ来てもここってホストクラブみたいよねえ。目の保養だわあ」
満足げなため息に、他の同僚が横から茶々を入れる。
「なんせ、うちのナンバーワンは誉で、ツー・スリーが薫に瑛ですからね~」
どっと笑われて、とにかくもう今すぐ帰りたい気持ちでいっぱいになる。
つい十年前までモデルとして世界的に活躍していた宮坂や、学生時代にさんざんもてていた蜂谷はともかく、地味な自分が同列になるなんて意味が分からない。
仕事も、とにかく裏方に徹してなるべく目立たないようにしているのに、蜂谷と宮坂に構われるせいで逆に悪目立ちしていつも落ち着かないから正直勘弁してほしい。
「ところで浅利先生。わざわざここまで上がってきたってことは、なんか僕に用があったんじゃないの?」
額でやわらかく波打つ長い前髪を優雅にかきあげて宮坂が尋ねた。
「ああ・・・。そう。きっとここの人たちはまだ知らないと思って」
抱えていたタブレット端末を起動して、浅利は宮坂に渡す。
「ロスで銃の乱射事件が起きたらしいの」
アメリカは銃社会だ。銃を使った事件なんてそう珍しくない。
宮坂自身もそう思ったようだが、文字を追い始めて眉をひそめる。
「ん?これって・・・」
「そう。アルファとオメガが盛大なパーティをしていたのよ。しかもゴールドとシルバー限定の会員制で」
アルファとオメガ。
それは、この現代社会であっても消え去らない特権階級のことだ。
いや、違う。
彼らは生物的に有利な立場にある人々。
容姿、体力、知力、行動力・・・。
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