エピソードタイトル未定

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 その後、何か国かを乗り継いでいるうちに、彼女の足取りは消える。  異国の女が家を出てすぐに、彼らは家の中を片付けて痕跡を消し去り、赤ん坊を『井戸』に投げ込んだ。  薄い色の髪と瞳の子どもは、日本では目立ちすぎて、面倒が起きるのは目にみえている。  雑に書類を作り、母親の縫った産着一枚着せたきり、あとは仲介者に任せた。  なんら、迷うことなく。 「・・・瑛。大丈夫か」  蜂谷が腕を回して瑛を抱きしめる。  なんとなくそれが自然な気がして、瑛はおとなしく彼の肩に頬を寄せた。  ぽん、ぽん、とあやすように背中を叩かれて、今まで呼吸も忘れて浅利の話を聞いていたことに気付く。 「これは、あくまでも私の推測でしかないけど」  浅利はつづけた。 「彼女は何もかも承知だったのではないかと思うの。日本へ渡って瑛を産むことも、そばにいられないことも・・・」 「どういう意味ですか」 「見送りをした通訳への聞き取りでは、彼女には先読みの能力があったのではないかと報告があるの。成田で別れる時に夫家族は人でなしだと憤慨していたら、片言で『だいじょうぶ。うみのむこうのひとのこどもをうむの、しってたから』と笑ったらしいわ」  彼女には、何の未来が見えてたのだろう。 「それとね。もう一つあるわ」  後ろからそっと浅利の手が瑛の頭をなでた。 「最後に、『わたしのぼうや、しあわせになる。だいじょうぶ。わたしの、たからもの』って」  ワタシノ、タカラモノ  どっと、波のようなものが押し寄せてくる。  草原の草のような髪、雪のように白い肌にバラ色の頬。  大きな瞳は、はちみつ色。  少し厚めの唇が朗らかに異国の音楽を歌う。  まだ少女のようなあどけない面差しで、柔らかくほほ笑んだ。 「かわいい、かわいい、わたしのぼうや、わたしのたからもの」  指先がからかうように頬をつっつく。  そしてなんどもなんども音を立てて口づけられた。 「かわいい、かわいい。なんてかわいいんだろう」  もみくちゃにされて、くすぐったい。 「だから、ここにいて」  いつのまにか、その人は泣いていた。 「どうかしあわせに」  ぽたりぽたりと雨のように涙が落ちる。 「さようなら」  やさしい香りが、薄れていった。 「・・・そんな・・・。そんなはずは・・・」  やさしい記憶。  覚えていられなかった思い出。  当たり前だ。  乳児で記憶がある方がおかしい。  でも今。  こうして脳裏に浮かぶ光景は、間違いなくあの時のもの。  別れの、朝。 「こんなことって・・・」  都合のいい妄想なんじゃないのか。  せめて誰かに愛されたかった自分の願望が、作り上げた夢。 「瑛」  蜂谷が囁く。  強く抱きしめられて、ますます胸の奥が熱くなる。  じわりじわりと広がる。  海の波がよせてはかえしよせてはかえしをくりかえすように、感情があとからあとから押し寄せてくる。 「う・・・」  もがくように蜂谷の背中に掴まった。  溺れそうだ。  心から何かがあふれて、溺れてしまう。 「うわーーーー。あああああ・・・」  叫んでいた。  叫ばないと、どうにかなってしまいそうだった。 「瑛」  わかってる。  わかってしまった。  あの、優しい人はもう死んだ。  産んでくれたのに。  愛してくれたのに。  あの香りがどこにもない。  土と、  草花と、  蜂蜜と、  風と、  空と、  太陽と。  月と。  暖かで優しい何もかも。 「瑛」  涙が、止まらない。  苦しい。  怖い。    どうして。  どうして。  どうして。  あなたが、ここにいない。 「ほら、温まるから」  蜂谷に渡されたマグカップを両手で受け取る。 「これは・・・」 「即席だけど生姜湯みたいなもの」  おろしたての生姜の香りと苦みが口の中に広がった。  甘露だ。  少しぬるめに作ってあったそれを一気に飲み干し、ほっと、瑛は息を吐きだす。 「うん、いつも俺が体調崩すと作ってくれるよな」  カップをサイドテーブルに置いて、蜂谷を見上げた。 「・・・だな。それしか思いつかないから」  だが、蜂谷は少し視線を外して笑うだけで、こちらを見ようとしない。 「蜂谷?」 「うん、俺はさ。あっちのソファーで寝るから瑛はここを使って」  今、瑛が座っているのは、蜂谷の寝室にあるベッドだ。  瑛の部屋は入れないからと宮坂に言われてそんなことになった。 「え・・・だって、ここは蜂谷の家じゃないか。俺がソファーに行く」 「いや、今日は瑛も色々あったからさ。ゆっくり寝て。俺の匂いがするだろうけど」 「蜂谷の匂い・・・」  言われて初めて、気が付いた。  そして、急に鼻腔が仕事を始める。  蜂谷の匂い。  木の幹と、針葉樹の葉っぱと、それと・・・。
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