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母の言葉に目を見開くと、
「やっぱりね。思った通りだったわ」
一つうなずいて、保冷バッグのチャックを開き中から食べ物の入ったタッパーを掘り出しては積み上げ始めた。
「こういう時に瑛が食べたくなるものばかり作ってきたから、少しは口に入れなさい」
時々、体調が悪い日にかぎって母がこうやって押しかけてくることも、忘れていた。
そんな時は、瑛が言うことを聞くまで絶対譲らないことも。
「いや、でも母さん・・・」
押し問答をしながら、頭の隅にちらりと何かがよぎる。
だけど、それは形にならないまま流れて行ってしまった。
そもそも、いま目の前にいる蜂谷に全く声をかけないなんて。
どうして。
「こんばんは、お邪魔しています」
蜂谷は最初あっけにとられていたようだが、気持ちを切り替えてすぐにそつなく挨拶する。
「あら蜂谷君。突然ごめんなさいね。気になったらじっとしていられなかったの。もしかして、瑛のことで今日は蜂谷君にご迷惑をおかけしたんじゃないかしら」
「いや、たまたま居合わせただけですから」
「ありがとう。ここは私がいるからもう大丈夫よ。毎日瑛ばかり構っていたら、蜂谷君の彼女もいい気はしないでしょ」
「そんな・・・。べつにそういうのは」
「あらあ、いないの?今。こんなに格好良いのにあり得ないわぁ。なら、なおさらこんなところにばっかりいちゃだめじゃない。蜂谷君ももう二十五歳でしょう。友達とばかり遊んでないで真剣に婚活始めないとね。親御さんも可愛いお嫁さんを心待ちにしてるはずよ。だいたい男は家庭を持って一人前なんだし・・・」
母はまるでなれなれしい親戚のように下世話なことをべらべらと喋り始めた。
一見親切に見えるかもしれないが年上ぶっているだけで、実は相手を傷つけるのをひそかに楽しんでいるような・・・。
マウントしているのがありありと出ていた。
「いえ。うちはそういうことはないので」
愛想のいいことでは定評のある蜂谷も、さすがにだんだんと表情が硬くなっていく。
「母さん、もうやめてくれ」
精一杯抑えたけど、耳障りな自分の声が響き渡った。
「蜂谷に対してあまりにも失礼だろう」
恥ずかしい。
どうして今、そんなひどいことを言えるのか。
「・・・あら。私ったらついおせっかいをしてしまったみたいね」
ふふっと軽く笑ってごまかしても、取り繕えることではない。
「瑛もまだ本調子じゃないみたいだから、今夜のお礼はまた改めてさせて頂戴ね」
なんと話は終わったとばかりに母はタッパーを抱えてシンクのほうへ向かった。
今日の母は変だ。
すごくおかしい。
「待って母さん・・・」
すぐにでも蜂谷に謝るべきじゃないのか。
「そうですね」
蜂谷の手がぽんと、瑛の背中を軽くたたいた。
「そういや、やり残した仕事があったのを思い出しました。職場に急いで戻らないと社長に叱られる」
温かい手のひらがさらりと肩甲骨を撫でて、離れる。
その触れ方に、彼のいたわりを感じた。
そして、残業なんて嘘だということも。
蜂谷は時々嘘をつく。
でも、それは。
「蜂谷、すまない」
「いいって」
かがんで床に置いていた荷物を手に取ると、蜂谷は母にいつもの人懐っこい笑みを見せた。
「では、俺はこれで。おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい。今日は本当にありがとう」
母はあくまでも何事もなかったのようにふるまう。
でもそれは明らかに冷たい声色で。
口では感謝を述べても、それは表面的なものでしかなかった。
「蜂谷、ありがとう」
「うん、ゆっくりおやすみ、瑛」
蜂谷の優しい香りが、母のまとうねっとりとした化粧の濃厚な匂いにかき消される。
母の匂いなんて、今まで気にしたことなかったのに。
床から昇る冷気が身体を包み込んだ。
寒い。
「母さん、さっきのはどうかしてる」
次々と戸棚から食器を取り出しては並べる母に、憤りをそのまま投げつけた。
「瑛。点滴っていったいどんな成分のをしたの?それと、病院はどこ?」
「え・・・」
器に取り分けた料理を電子レンジに入れた母の背中をまじまじと見る。
「俺、点滴したって言ったっけ?」
長袖のボタンはきっちりと手首で止めたままで、点滴の痕は母には見えないはずだ。
「ええ、さっき蜂谷君と一緒に話したじゃない」
「・・・そうだっけ」
「そうよ。だから元気になったって」
彼女はコンロに火を入れて今度はみそ汁を作り始めた。
「で、処方箋は?」
冷凍庫の隅にほうれん草の素材パックがあるのを見つけたらしく、取り出した一掴みを煮立った鍋に乱雑に放り込む。
「・・・ない」
「なぜ?」
「なぜって・・・。急だったから。俺、保険証持ってきてなかったし。明日にでもって・・・」
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