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「そんな医者で大丈夫なの?個人医院でしかも女医だなんて。本当に医師免許持っているのか確認した?何かあってからじゃ遅いのよ。もう大人なんだからしっかりしてちょうだい、お願いよ瑛!」
まくし立てているうちに興奮が増したのか一気にトーンが上がり、母のヒステリックな声が部屋の中できんと反響した。
「母さん・・・?」
どんなに問いかけても、母は怒っているような固い表情を浮かべたまま、食卓の用意をし続けた。
「・・・とにかく、食べて寝なさい。今夜は泊まるから」
実家とこのマンションは電車の乗り継ぎが悪くても一時間ほどの距離だ。
親に対して思うのは悪いが、まだ帰れない時間ではない。
今は一人になりたいと、強く思った。
「・・・父さんは?母さん居ないと困るだろう。もう俺はいいから・・・」
「お父さんは出張よ。大事な仕事を任されて忙しいの」
父はいつだって忙しい。
転職を繰り返しては条件の良い会社に移り、いつもがむしゃらに働き続けている。おかげで瑛は途方もなく授業料の高い学校へ通うことができた。
しかし。
「そう・・・」
そのせいか、母の注意は常に自分に向いているように思える。
今夜はとくに。
「じゃあ、ありがたくいただきます」
椅子に座って、母の手料理に箸をつける。
向かいに座る母も自分の膳を用意し、一緒に食べ始めた。
緊張してた空気が、少し和らぐ。
「明日、朝一番で筒井さんのところへ行くわよ。会社は休みなさい」
「え?」
筒井とは、子供のころからのかかりつけの病院のことだ。
「いや、俺もう大丈夫だし」
「いいえ。あなたは自分で思うほど丈夫じゃないのよ。大事になる前にきちんと診てもらわないとお母さん安心できないわ」
ここで同意しないとまた荒れるのは目に見えている。
場をおさめるには従うしかない。
「・・・わかった。蜂谷に連絡しとく」
明日の仕事の予定に考えを巡らせながら、みそ汁を口に含む。
湯気がたちのぼる味噌汁のやわらかな香りに目を伏せる直前、母の口元が見えた。
わずかに震えながらゆっくりと奇妙な形にゆがむ唇を。
「あれ?なんで帰ってきちゃったの」
休憩スペースで数名の同僚たちとなごやかに夜食を食べていた宮坂は目を丸くする。
「しかも、コンビニ弁当持って。なんで?」
「なんでとおっしゃられましてもね・・・」
乱暴にどかっと椅子に座り、弁当をテーブルの上に放る蜂谷のいつにない態度に、同席していた者たちはそそくさと逃げ出す。
「あーあ。みんなを怖がらせちゃって。どうしたの?」
「・・・どうもこうも」
薄々は気が付いていたが、こうまではっきり態度に出されたのは初めてだった。
「具体的に」
ゴシップ好きの宮坂を喜ばせるだけと知りつつ、口を開く。
「・・・瑛の部屋にいきなり母親が飛び込んできて、散々俺を無視した挙句に、かなり失礼なことまくし立てて厄介払い?俺、高校から面識あるんだけど、急にそんな態度取られてもわけわかんないわ」
学園祭で瑛から両親に初めて紹介された時、彼らは物凄く喜んでいたように見えた。
「瑛に友達がいたなんて、この学校にしてよかったわーとか言われて、俺、ものすごく舞い上がったんですけど」
蜂谷の記憶が改ざんされていない限り、間違いない。
「うちのクールビューティ、見た目だけはほんとに氷の女王だもんね。中身はとてもとても純情で不器用で、ごくごくフツーの男の子だけどねえ。ちょっと恥ずかしがり屋で」
そうなのだ。
夏川瑛はガラス細工のように繊細な顔の作りをしていて、触れたら傷がつきそうに見える。
入学式に初めて会った時は本当に驚いた。
求肥みたいにまっ白で柔らかそうな肌に薄くバラ色に染まった頬、とがり気味の細い鼻梁に長いまつ毛。薄茶色の髪はほんの少しでも光にあたると飴色にきらきら輝いていた。
こんな綺麗な子が存在するなんて。
ところが全身をようやく見てみればスカートを履いておらず、しばらく現実が呑み込めなかった。
でも。
綺麗なものは綺麗。
中学一年にして蜂谷薫が下した結論はそれに尽きる。
しかも親しくなってから知ったことには、瑛は自分を地味で平凡でなんにもできないつまらない子とか思い込んでいて、さらに『自分と一緒にいてもつまらないだろう?』ってあのヘーゼルナッツみたいな不思議な色の瞳でおどおどおずおずと見上げられた時には、なにこのかわいい生き物はと心臓を撃ち抜かれ死ぬと思った。
その時、すぐに「そうじゃない」と否定したが、「そうだ」と言いたくなる自分も自覚していた。
頼れるのは自分しかいないと囁いて囲い込んでみたいと、一瞬思ってしまったから。
「はあーん」
にやっと宮坂は人の悪い笑みを浮かべた。
「悪い虫認定されたんだあ」
「悪い虫って・・・」
自覚はある。
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