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彼は背を波打たせながら必死で酸素を取り込んだ。動く肋骨がふいごのようだ。息を大きく吸いすぎて咽てさえいる。肺を狭めるように太腿を閉じて胸に体重を載せる。くぐもった咳が漏れた。
左手で彼の前髪を掴み、顔を引き起こす。
「まだ、生意気を言うの」
彼は嗤う。
その口をふたたび塞いだ。
手を重ねる。たったそれだけの動きが諒から呼吸を奪い、彼に恐怖の表情を浮かべさせる。柳眉が歪んだ。見開かれた上瞼が引き攣る。彼は苦しそうに一度目を閉じた。だが、次に弱々しく薄目を開いたときは、また昏く嗤っていた。こんなことしかできないのかと沙璃を嘲っていた。
もう右だけでは足りなかった。両手を載せて鼻と口を完全に覆う。愛した美貌を隠し、潰した。嗤うまなこを閉じさせてやろうと圧を強めていく。
「ッぐ……う……ん……、……んんぐッ……ッう!」
歪に開いた口からはみ出た舌が掌に触れる。濡れた感触はまるでじゃれて舐められているようだった。そんな余裕がないのは蒼ざめていく様子に明らかだったが、なんとなく懐いていたときの諒の仕草を思い出した。くぷくぷとあふれた唾液が手と口とをさらに貼り付けて、次の限界までは早かった。閉ざされた瞼が危うげに戦き、晒された細い首がびくびくと跳ねる。
手を離した。
「気は変わった?」
「ッぐ……はぁ……っは、あ、……ひ……っ……」
咽ながらの息は弱々しい。
涙に濡れた目はやはりガラス玉のようで、責め苦に力を失ったように見えた。彼は浅い息を紡ぎながら濡れた唇でうわ言のように呟いた。
「あなたには、ずうっと……、そばに、いてもらわなければ……」
「勝手なこと……!」
「どちらが……?」
白い喉がおののき、彼は掠れた息で嗤ったようだった。朧な視線が外側に流れた。
「あなたは僕をこんなにして放り出す。柊二も柊二だ。……相手が柊二でなければ、殺してやりたかったぐらいだ」
「なっ……!」
いま、なにを。
血が逆流したように感じた。視界が揺れ、急速に狭まっていく。
彼が無機質な両眼を沙璃に向けた。瞳孔の開いた目は底なしに深く、冷たい。唇を笑みに歪めたまま薄氷の声で言った。
「柊二を、殺してやりたかった、って……」
「この――!」
沙璃は両手で諒の首を絞めあげた。
上から体重をかけて気道を押さえ、呼吸を奪う。
自らの長い髪が白くなった指に絡んだ。構わず、髪ごと絞めた。
「ぁッ……、っく、んッ……!」
諒が一瞬、とても悲しそうな顔をした。だが、すぐにその表情は歪んで失せた。
怒りまかせに絞め続けた。肌が蒼ざめようとも緩めなかった。
彼の美貌も感情の表出もなにもかもが苦悶の一色に塗りつぶされていく。
彼に不似合いな濁音の呻きが長く伸び、弱々しく途切れる。
かすかに唇が震えた。
さっきと同じかたち。
ころしてやりたかった――……。
いや、唇は四音目で動きを止めた。
彼は以前、言った。
『捨てるぐらいなら』――。
「――ッ!」
沙璃が慌てて手を離したときには、諒はぐったりと目を閉じて顔を横に傾けていた。斜めに伸びた首はふだんより長く見えた。
息を荒く切らせながら腰を浮かせ、その首に脈動のあるかじっと目を凝らした。よくわからない。おそるおそる指で触れる。手が強張っているのが忌々しかった。肌はまだ温かい。だが、脈が見つからず、代わりに自分の脈が速くなってゆく。しばらくあちこちを撫でて、ようやく頚動脈の動きを捕まえた。もう片方の手をそっと口許にやる。かすかに呼気が触れた。
気を失っているだけか。
ほっとすると同時に、躯の芯までが冷えた。
煽られた。
思えば諒はずっと沙璃を挑発していた。なにを言えば沙璃が我を忘れるほど激昂するか、言葉を探っていたに違いない。そうやって沙璃が自分を殺すよう仕向けた。
横たわる諒を見下ろす。
下にいると見せかけて、沙璃をコントロールしようとした――。
憎たらしかった。もういちど首を絞めてやりたいぐらいだ。
だが、そんなことをすれば彼の思惑どおりだ。気を鎮め、もういちど呼吸と脈拍の回数を測った。弱々しかったそれはだんだんと平時に戻っていく。いっそ叩いて起こそうかとも思ったが、いまは頭を冷やしたほうが良さそうだった。念のため首を横に傾げさせ気道を確保して、ゆっくりと立ちあがる。
頚部に残った紅い絞め痕が、“それ”が自分のものだったと示す。
所有の証はいつだって首に紅く残るらしい。
見惚れれば、胸の高いところから水滴が落ちて蒼い波紋がどこまでも水平に広がっていく。
髪の乱れも唇に残る苦痛も美しかった。
殺されたいとさえ願ったその弱い心も、喰らってやりたいほど愛らしい。
両手を見た。
――わかってるわよ、自分がおかしいんだって。
この刃のような衝動が柊二に向かないと誰が言える。
――いっそ、遠く離れてしまったほうがいい。
俯き、垂れた髪を乱暴に払う。かすかに汗を感じた。
倒れた衝立の横を抜けて部屋をあとにすれば、廊下の先にはきよらがいた。
長い黒髪を垂らして黒のワンピースを纏った姿は、やはり黒い影のようだった。隣、一歩下がって顔を赤くした隼斗が立って沙璃を睨みつけている。
寝室から出たところを見られた。だが、いまは昼間だ。だいじょうぶ、今日はストッキングだって脱いでいない――。
沙璃はできるだけそつのない笑みを浮かべた。
「お帰りだったんですね、二階までいらっしゃるなんて珍しい」
「私は親族だもの、どこにだって入るわ。――諒は? 部屋?」
きよらは歩を踏みだした。無意識に沙璃の肩が通路を塞ぐように揺れた。
自覚してそれ以上は押しとどめたが、代わりに素早い瞬きが三度落ちた。
「眠ったところです、起こされたくないと思います」
自分はこんなに嘘が下手だったのか。掌に汗が滲むのを感じた。
隼斗がぼそぼそとなにかを囁いて、きよらは面倒そうにそれをあしらった。
「もうわかったから、お前は下がりなさい」
「でもー!」
「聞こえなかったの?」
黒曜石の双眸で鋭く睨めつけると、隼斗は冷たいものを浴びせられたように飛び退った。そうしながらも沙璃を見て叫んだ。
「お前っ、お前のせいで大好きなきよら様がっ……!」
「庭の掃除をなさい! ひとりだけさぼるんじゃない!」
西の階段を鋭く指差すと、彼は逃げるように走っていった。
――私のせいで破談になった、そう言いたいのね?
以前から隼斗はきよらに懐いてはいたが……。
彼が立ち去るのを待ってきよらは口を開いた。
「……リビングに行きましょう。話があるのよ」
私、あなたに用なんてないわ。
言葉は喉でひっかかったまま出てこなかった。こんなに静かな口調のきよらに完全に気圧されている。
一緒に居間に行けば、きよらを諒の部屋から離すことができる。そう気づいて頷いた。
「みな庭に出払ってますから、お茶もお出しできませんけれど――」
そう言って、屋敷の女主人として先を歩きだす。
無言。ふたりぶんのハイヒールの靴音もぶ厚い絨毯に吸いとられる。
居間に入るときよらは勝手にソファに腰掛け、すらりとした脚を揃えて投げだした。
「この屋敷はね、元々八雲の家の夏の別荘だったのよ」
沙璃は対面に座り、ええ、と頷いた。
「ええ、諒から聞いています」
「私も毎年呼んでいただいたの。諒が七つ上で、百合乃が九つ上でしょう。年の離れた兄と姉ができたようだったわ」
穏かな口調ながらも百合乃と紡ぐ声には硬い敵意が篭もっていた。
諒と間逆だ。
わけがわからなかった。きよらはどうして昔話などしはじめたのだ。フランスに行って少し気持ちが落ちついたのだろうか。
華やかな目許を見つめるが、黒い双眸はなんの感情も表さない。
紅唇にはなにかを隠すかのような薄笑み。
「私、きっと我が儘も多かったと思うわ。けれども百合乃はとっても我慢強く良いひとだった。叔父様に――父親に気に入られたい一心だったのでしょうね。その代わり、陰でいつも諒を苛めていた」
声は霜のように硬く、地を這うようだった。
「まさか、」
諒は百合乃を姉様と慕っていたのだから、そんなことは――……。
そんな憶測の言葉は現実を見たきよらの強い言葉にかき消された。
「嫡男の諒が憎かったのよ。意地悪を言ったり、抓ったり叩いたり。大人に見えないところで上手にやるの、本当に陰湿」
吐き捨てて、視線を窓に流した。自然庭園、腐食したガゼボのある側へと。
「昔、あのガゼボは薔薇に覆われていて隠れ家みたいになっていたの。また諒があそこで苛められてるんじゃないかっていつも心配だったわ。あるときなんて、あのひとは両腕を血まみれにしていた。百合乃が命令して、茂みの奥の薔薇を摘ませたの。棘にひっかかりながら諒が薔薇を摘むでしょう? そうしたら、それじゃないもっと奥のって、せっかくのお花を投げ捨てて。諒が痛がって涙ぐんでも、絶対に許してあげずに何度も何度も……」
嘘よ。
声は喉に石のように詰まって息苦しさに胸が上下した。
「私、まだ子供だったけれど何べんも諒に言ったのよ。やりかえしなさいよって。でも、あのひとはいつも首を振っていた。優しいからだと思っていたわ。諒が苛められなければ、次に狙われるのはいちばん小さな私じゃない? 実際は、諒は百合乃を庇っていたわけだけれど」
くすっと皮肉っぽく笑うきよらを見て、彼女の諒への好意や愛情はそのときに生まれたのだと知った。たぶん、諒が泣いているのを見られたのもこのころ――。
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