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臀部は薄いがそれなりに爪先がめり込んだ。だが、あまり痛くなさそうに思えた。だから、爪先が当たればそのまま踵も押し付けて、長く細いヒールを肉に突き入れる。
思ったより、筋肉の硬さを感じた。
「あッ、ぐ……やめ……んんッ!」
彼が悲鳴をあげるたび、躯の奥は蒼く凍えた。吐いた冷たい息が唇を撫でる。
蹴りつづけるうちサマーウールと思しき品の良い色のスラックスが靴跡で汚れていく。諒の美しさは気に入っていたし、綺麗な衣服を身に着けているのもとても好きだったが、いまはそれらをみずぼらしく汚してやりたい気分だった。
ようやく彼は前に逃げようとした。自分に手足があることを思い出したらしい。
けれども、沙璃にも自由になる脚がある。
彼の脚が動きに左右に開いたのを見て、下腹部を一蹴した。
「ぅあ――!」
尖った先が硬さの違うものを蹴った感触が確かにあった。彼の悲鳴が当たりだと教える。
見下ろした彼は四つん這いの躯を硬直させて小刻みに震えていた。
「ぁ……や……、つうッ……」
「逆らうとどうなるか思い知った?」
爪先を離してやると彼の躯は目に見えて弛緩した。許してもらえたとでも思ったのか。
再び動きを止めた的の同じ部位をもういちど大きく蹴りこんだ。
「――ッ!!」
もう諒は声を出すこともできず、ただ躯を痙攣させるだけだった。腰だけが突きあがっているように見えて、滑稽でもあり淫猥でもあった。床に跪き、後ろ襟を強く引く。項が冷たく汗ばんでいた。
「その話、取り消してきなさい」
彼は絨毯にうつ伏せたまま顔を横に振った。
「そう」
まだ逆らうんだ。
背から圧し掛かり、柔道の寝技をかけるように彼を仰向けに転がそうとした。どうせなら、顔を見ながらいたぶってやりたかった。もつれあい、竹を描いた衝立が胡蝶蘭の鉢をまきこんで倒れる。動きを封じようと深く体重を載せると彼がびくっとした。さらさらの髪の間から覗く耳朶が朱を帯びる。苦しいのが良いのかと内心蔑んで、自らが乳房を押し付けているのに気が付いた。
「莫迦じゃないの?」
こんなものに反応する諒のなかの男の部分はやはり目障りだった。さして大きくもない膨らみを当てたまま、もういちど躯を反転させようと試みる。羞恥からか痛みからか彼の抵抗は先より弱く、なんとか仰向けに転がすことができた。起きあがれないよう胸の上に跨る。苦しげな呻きと身の捩り、肋骨の軋む感触があって、彼が生きた人間なのだと改めて実感した。
「ハ、ぁ……っ……は……」
胸の上に乗られて彼は苦しげだった。沙璃は上背があるうえ、その体重はスレンダーな見た目より重い。絨毯に押し付けられた白皙は土埃に薄く汚れて、繊細な美貌は苦痛に歪んでいた。目は虚ろで目尻には涙が浮かび、濡れた長い下睫毛が下瞼に貼りついている。頭のほうにはかつて赤紫のグロリオサが踊っていた青絵仙人図の大きな火鉢があった。いまは大輪の白百合が澄まして立ち、諒の泣き顔に淡い影を落とす。
彼は表情を見られまいと汚れた顔を傾がせた。今日の彼はいちいち逆らって、沙璃を苛立たせた。その頬に両手を添え、無理矢理こちらを向かせる。顔をじっと見つめたまま、添えた右手を頚部に左手を耳のほうに滑らせた。
「っ、ん……!」
首を絞められると思ったのか、諒の躯は一瞬緊張した。明るい色の双眸が怯え、こちらを上目に窺う。ふん、と鼻で笑って、猫の顎の下をくすぐるように指先を遊ばせた。指の腹で肌を軽く愛撫すると、彼は呆気なく甘い吐息を洩らした。相変わらず、快楽に弱い。
顎の下のやわらかな部分を親指で押さえ、頤を上げさせる。
「あッ……!」
「蹴られたときから感じてたんでしょ、この変態。あなた、異常よ?」
諒は痛みと息苦しさに喘ぎながら、眇めた双眸を沙璃に向けた。
蔑みの目。
「本当に、愉しそうに……」
細く紡がれた声は氷の粒を含んでいた。ひとつ遅れて紅い唇が嘲弄に歪む。
「あなたは本当に愉しそうに僕をなぶる。僕が異常だっていうなら、あなただって異常だ」
わかっている。そんなこと痛いほどわかっている。
「黙りなさいよ……」
顎に宛がった手に圧をかけた。諒は顔を顰めながら頤を上げ、呼吸を確保しようとする。かぶりを振る動きに癖のない髪が揺れた。髪の間から茶の瞳が覗く。
「柊二には、酷いことをしないであげてくださいね? あの子は、とても良い子なんですから」
「そんなことするわけ……!」
諒は喉を反らしたまま歪な嗤い声をたてた。これ以上聞きたくない。その声を押しつぶすように顎の下を圧迫する。
「ッぐ……ううッ!」
諒が苦しげにえづいた。広げた指に下顎の骨が食い込んで痛みさえおぼえる。指を押しかえすように脈拍が強まった。
彼の顔が白くなったのを見て、手の力を抜いた。
「ぁッ……はッ、はぁッ、は、……ぁは、は……!」
いつものように激しく呼吸を貪る。だが、その呼気にははっきりと嗤いが混じっていた。
嘲笑と自嘲。
「まともな人間が、僕たちみたいなのを相手にするとお思いで……? あなたは、僕と一緒にいたほうがいいのですよ」
「黙れっ!!」
両襟を握り左右から絞りあげた。喉を反らして逃げようとしたところを、更に深く絞める。
「う……ッん、ぐ……!」
瞳がまだ嗤っているように見えて腕に力が篭もった。首に皺が引かれ、彼が頭を小さく振った。茶がかった髪が乱れて、汗の浮いた頬に貼る。それを見てふっと頭が冷えた。
――ああ、そうだ、頚動脈を押さえれば落ちてしまう。
簡単に気絶させる気はなかった。
沙璃は右手だけを離して圧力を弱めた。いくらか呼吸を許されて彼は大きく息を喰らう。肋骨の上下運動が脚の間に響いて少し可笑しかった。嗤いながら右の掌を鼻と口の上に重ねた。
血流を止めず、呼吸だけを奪う。
「んんッ――! んッ、んッ!」
諒が目を見開いた。そのままかたちのよい膨らみを押しつぶすように掌底を押し付けていく。手の下で唇が蠢き、必死で息をしようとしていた。そのやわらかな抵抗が心地好い。濡れた粘膜が僅かに触れて、掌と唇の間から細く息が抜けるのがわかった。吸わせまいと躯を前傾させ体重をかけて口を塞ぐ。ごり、と絨毯越しに後頭部が床にぶつかる。
胸部圧迫による呼吸抑制。
さらに、気道の入口である鼻と口を閉塞され、肺への酸素の供給がほぼ断たれる。
「く、んッ、ん……! ……!」
背が反り、躯が悶えた。本気で苦しいというよりも窒息や死を怖がっているように見えた。だから、そのまま容赦なく圧をかけつづける。苦しさはあっても体内に溜めた酸素で一分程度はもつらしい。自らの荒い息を聞きながら、冷静に数を数えた。彼は眉間に深い皺を刻み目を固く閉じている。苦しんでいるはずなのに官能に悶えているようにも見えた。五十九。だんだんと呼吸が速くなり、毛布を蹴飛ばすように長い脚がもがいた。膝と太腿で躯を締め付けて押さえつける。下で動かれば動かれるほど、この躯を支配しているのだと実感できた。嗤えば肺に冷たさを感じる。しだいに見下ろした顔の白さから温かみが失われていく。九十三。
一度手を浮かせた。手は彼の呼気と唾液で湿っていた。
「ッはぁ、はぁッ、あッ……くぁ、はぁぁッ……!」
躯を揺らして大きく息をした。固く閉ざされていた瞼が薄く開く。涙に濡れた瞳を見ると、ぞくりとした。
「気は変わった?」
首を横に振る。唇の端を唾液が伝いおちた。口角が上がる。
「――この、身の程知らずのサディストめ」
「そう」
再び、濡れた口許に手を重ねた。
「ん、――っ!」
唾液が掌と唇をぴったりと密着させる。そのうえ、沙璃の手もまた薄く汗をかいていた。湿った掌底は彼の顔に吸い付き、呼吸の自由を深く奪った。
さっきの苦しさを覚えているせいか抵抗は大きかった。腕を上げようとする動きを膝で肩を押さえつけて封じれば、身を大きく捩って沙璃を落とそうとする。のたうつ長身に床が鈍い軋みをたてた。制圧しようと上体を前に倒せば口を覆う手にも力が入る。沙璃の長い髪が肩から滑り、カーテンのように諒を覆った。髪の下、組み伏せた躯が熱くなっていく。
「……ッ、んッ、う……!」
満足に空気が吸えなかったのか、二度目はあまり長くもたなかった。呼吸はすぐに速くなり、三十秒もたたないうちに、尾を引くような長いものに変わった。そのころには顔は色をなくして、しきりに左右に揺れていた。窒息感に戸惑っているようにも手を払おうとしているようにも見える。虚ろな目がじっと据えられ、沙璃を網膜に焼き付けんとしているようにも。構わずに重ねた手の圧を深める。べったりと潰れた唇が掌に張り付き、ひくひくと痙攣した。太腿で押さえつけた肢体が弱々しく身じろいだ。どちらも素晴らしかった。彼が苦しんでいるのが触覚を通じて感じられるからだ。
九十を数えて手を離した。
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