アラクネ ※

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 きよらは唇だけで微笑み続け、美しい顔は夜叉のように見えた。  この先を聞いてはいけない。  耳はそう判じたのに、手足は動かなかった。 「それでね、そんなことがあったのに、私が十一のときかしら、私、百合乃が諒の寝室から出てくるのを見たの。さっきのあなたと同じようだった。とても悪い予感がして、私は部屋に飛び込んだわ。…………そうして、百合乃は二度と別荘に来れなくなった」  世界が押しつぶされたようだった。音が無くなり、代わりに細い耳鳴りが抜けていく。暖かなクリーム色のソファも白磁の花瓶もピンク色の紫陽花もすべてがとても遠くなった。黒い服を着たきよらだけが近くにある。 「あなた、母親と同じことをするのね」 「や、だ……待って、違う……」 「なにがよ? 隼斗が教えてくれたのよ。癖の悪い子ね、鍵穴から少し覗いたみたい」  沙璃が諒に跨っているのを見て誤解したか。本当はなにをしていたのかを知っていればきよらの糾弾はこんなものでは済むまい。  いや、問題はそこではない。問題は、諒と百合乃だ。 「だって……」  ――だって母親が違うとはいえきょうだいなのに、そんなことをするはずがない。  けれども、葬儀の日、最初に諒を見たときなんと思った。  母の秘密の恋人。  最愛のひとを亡くした。そんな雰囲気を諒は纏っていたのだ。  視界が揺れて、気づけば大きく首を振っていた。 「けれども! もし、その話が本当だったら、あなたが諒と結婚するはず――」 「どうしてよ? だからこそ私は諒を守ってあげたかったわ」  きよらは真っ直ぐに沙璃を見て、ソファから腰をあげた。過去形だった。重たげなワインバッグを卓に載せる。 「お土産は白ワインなの、諒に渡してね。ところで、あなた何歳?」 「……二十二」 「誕生日は?」 「五月、五月七日」  混乱していたから、質問の意味を考えることも答えを偽ることもできなかった。 「そう。彼は、きっとあなたの父親よ」  きよらは冷笑のかたちに唇を歪ませた。だが、蒼ざめた顔は泣くのを堪えているようにも見えた。そのまま、部屋を抜けようと歩を出す。 「違うわよ、だって、私の父親は……!」 「似てる?」 「知らない……会ったこと、ない……」  十和田勝利。沙璃が物心つく前に離婚したという百合乃の夫。名前だけは知っている。だが、彼の写真の一枚も家にはなかった。  きよらはなにも言わずに居間を出て行った。  いや、扉を出る直前、小さく呟いた。 「莫迦なひと」  彼女の背を隠すように扉が閉まった。  沙璃は口許を押さえ、ソファの上で躯を丸めていた。刃物でも突きつけられたかのように震えが止まらない。歯はがちがちと鳴り、指は痙攣でも起こしたように乱れ動いた。  諒と似ていないところを探そうとした。骨格。それから、それから? 共通点ならいくらでも思い浮かんだ。背が高い。目や髪の色が薄い。肌は少しくすんだ真珠質の光沢を帯びている。髪質。眠るとき締め付けがあるのが嫌い。肉より魚が好き。  ――違う、それは母さんと私の共通点じゃない! 母さんだって背が高かったし、鶏肉以外お肉は好きじゃなかったし、それで、それで……。  似ているも似てないも諒と百合乃がきょうだいである以上、酷くわかりにくかった。もしかすれば、それは共に父親、博嗣から受け継いだ特徴かもしれないのだ。 「諒に……」  彼に尋ねればいい。もしかすれば、きよらは嘘をついたのかもしれない。沙璃にショックを与えて、ここから追いだそうとして――……。  立ち上がろうとして脚がかなわなかった。崩れるように落ちてマホガニーの卓でしたたかに膝を打つ。痛みに小さく呻くと同時にわけがわからないまま涙があふれだした。捧のように感じる指で卓の縁をつかんで身を引き起こす。重い。躯の中がすべて澱んだ汚水にでもなってしまったようだった。  脚を引きずるように壁伝いに廊下を行く。階段を一歩踏むたびに景色が揺れて情けない涙が頬を伝う。  ――私は、父親にあんなことをしたわけ?   元々叔父とは知っていた。血縁者。だが、面識のない叔父はあくまで母の弟であり、自分との血の繋がりはワンクッションおいたものとしか感じられなかった。けれども、父親。一親等の親族。  そして、諒はすべて知っていた。  叫びだしそうになって、ようやく足は主寝室の重苦しい扉の前に辿りついた。扉は酷く高く厚く見えて先に閉ざしたのが遠い昔のようだった。ノブに手をかけて、右に――まわらなかった。鍵が下ろされていた。 「諒、ここを開けて」  鍵は開いたまま出た。施錠したのなら彼は起きている。部屋のなかにいる。どんと扉を叩いた。応答はない。また叩く。右で、左で、硬い扉をめちゃくちゃに殴りつける。 「開けてっ、開けなさいっ! 諒っ! 聞こえてるんでしょ! 開けろっ!!」  叫ぶ喉が痛んで打ち付ける拳が痛んだ。それでも叩き続けた。  左肩に力がかかった。無視して拳を振るった。今度は左肩がぐいと引かれた。力に抗って扉に縋ろうとして静かで厳しい声が聞こえた。 「おやめなさい、……お嬢様」  振りかえると、兵働が憐れむような目でこちらを見ていた。 「あな、た……、知って……?」  彼女は静かに頷いた。 「きよら様がお話になりましたか」  今度は沙璃が頷く番だった。頷きに涙が散って、慌てて手で拭った。  兵働は気の毒そうに眉を寄せて沙璃の背を扉へと預けさせた。  ――諒は耳がいいのに。ぜんぶ聞かれてしまうのに。   だが、足はもう動かなかった。 「本当なのね? 諒と母さんは……」 「ええ、ごきょうだいでしてはならないことをなさいました。それで百合乃は追いだされ、諒様はお心を病まれて病院へ入られました」  いつの間にか別荘に来なくなったなんて大嘘だった。禁忌を犯したから、ふたりは引き裂かれた。そういうことだった。 「そのとき、私のことは……?」 「わかっていれば、お前は生まれていませんよ」  きっぱりと言った。 「ずいぶんあとになってわかりました。百合乃はいまの結婚相手との子だと申しました。事実、その夏も交際していたようなのです」 「じゃあ――!」  やっぱり、私は十和田勝利の子じゃない!  兵働は冷たく首を振った。 「お前が諒様のお子かどうか私にはわかりません。百合乃にしかわからないでしょう。諒様のお子かもと思えば愛しくもなりますが、百合乃の子だと思えば憎たらしい。百合乃が元凶なのです、あの子が諒様をたぶらかしたのですよ」  扉の向こうの諒に聞かせるように兵働は吐き捨てた。  だが、扉は動かなかった。  諒は耳を塞いでいるのか。或いは、またなにも聞こえなくなっているのか。 「……この話はほかに誰が知っているの?」 「生きている者では私と一嗣様、きよら様でございます。礼嗣様がたは百合乃の成人と同時に縁切りをしたと思っておられます」  伝えるべきことは伝えた。そんな面持ちで兵働は小さく息を吐いた。 「お暇を戴こうと思っておりました。妹が定年退職をして、一緒に暮らそうと言ってくれましてね。それにこんなことをお話しては、私はもう八雲の家にはおられません」  沙璃ではなく、扉の向こうを見て兵働は告げた。 「長く勤めすぎました。なにもしてさしあげられないくせに、長く……」  沙璃はもういちど目許を拭った。そして、扉から背を起こして自分の足で立った。 「鍵を、車の鍵を貸して。使い終わったら、代行運転でも頼んでここに戻させるわ」 「それは……」  兵働はなにか言いかけて、小さく首を横に振った。ワンピースのポケットから鍵の束を抜き、銀の鍵を一本渡す。 「ありがとう。……いままでお世話になりました」  沙璃は兵働に深々と頭を下げた。お辞儀を起こすとまた泣きそうになって慌てて躯ごと顔を背けた。扉沿いにひとつ歩を出して、ふと思い出したことがあった。 「母は、彼を諒ちゃんって呼んでいた?」 「はい」  は、と嗤うような息が喉から上がった。視界が揺れる。 「私は母さんの代わりかぁっ!!」  思い切りドアを殴りつけて、一瞬、返答を待った。違うと一言で良かった。いや、そこまで贅沢は言わない。なにか言おうと、みっともなく言い訳しようと名を呼んでくれるだけで良かった。扉の前に来てくれるだけでも。なのに、なにもなかった。無言の肯定。声をあげて駆けだした。  自分の部屋に飛び込んで鍵をかけた。泣きじゃくりながら手早く荷物を纏める。スケッチブック、服、化粧品、買ってもらったものばかりでまた涙があふれた。小さめのボストンバッグひとつを持って部屋を出た。足りないものなんて街で買えばいい。いまの沙璃には金銭的余裕だけはあるのだ。  車庫に向かう道すがら、庭の奥で枝を拾っている柊二を見かけた。脇目もふらずに働いている姿には好感が持てたが、おかげでこちらに気づいてもらえなかった。  ――マレーシアに行くんでしょうね。  心の中で呟いてみた。  ――やりたいことがやれるなら、そりゃあなんだってするわよ。  自分のように。  自嘲的に笑って、また涙が出そうになって振り切るように顔を背けた。  ひとり、荒れた庭を抜けてゆく。
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