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俺は深く息を吸い込んで、大きくため息をついた。雑談をしながら背後を歩いていた女子が、一瞬だけ静かになる。確実に聞かれてしまっているけど、今はそんなことなんてどうでもいい。
沈む気持ちに比例してか、無意識のうちに目線は空を離れて街を見下ろしていた。信号が赤から青に変わり、数台の軽自動車が学校の前を横切っていく。
「ん……?」
白い軽トラックを最後に車が途切れた直後、生垣の側を歩いていた人がぴたりと足を止めた。周りを気にしているのか、どこか落ち着かない様子で辺りを見回している。その後は妙に背筋を伸ばしながら、顔を上げてじっと校舎を見つめ始めた。
二十代前半くらいの、若い男の人だ。視線からして俺には気付いていないと思うけど、何だか目が合いそうな気がして俺は少し窓から距離を取る。
学校に用があるんだろうけど、表情がやけに険しいのがどうにも気になる。そもそも生徒の親にしては若すぎる気がするし、一体どんな用があって学校に来たんだろう。
「っで!?」
突然、男の人の叫び声が響き渡った。校舎に反響した声は他の生徒たちにも聞こえてしまったらしく、数人の生徒が俺と同じように窓の外を見下ろし始める。
「き、急に打たないでくださいよ!? 心臓止まるかと思ったじゃないですか!?」
「ちょっと肩叩いただけじゃねーか。 あれで止まるような心臓だったら、鈴森のイタズラでも死んじまうぞ?」
二年生の教室は二階にあるから、大きな声を出せば内容まではっきりと聞こえてしまう。そうとは知らないのか、それとも見られていることに気付いていないのか、男の人は建物の陰に向かって不満げに話し掛けていた。
誰かがいるみたいだけど、ここからでは声の主の姿を見ることができない。だけど、あの野太い声には聞き覚えがある。つい最近も、いや、それよりずっと前から聞いている声だ。
「それは……まあ、そうかもしれませんけど」
若い男の人が肩を落とした。それに比例して、声のトーンも落ちていく。
「そういえば鈴森先輩、昨日も野潟さんの机におもちゃのゴキブリ置いてましたよね。うちの隊長もかなり怖い顔してましたし、少しは松ノ木隊長からも……」
「あいつはいつでも怖い顔だろ」
「そういう問題じゃないですってば!!」
俺に見られているとは露知らず、若い男の人が声を張り上げる。妙に緩急のついたやり取りが面白いのか、少し離れた位置からくすくすと笑い声が聞こえてきた。
いや、そんなことはどうでもいい。今、確かに「松ノ木隊長」って……。
「まあ、それについては後で聞くわ。じゃ、そろそろ行くぞ」
建物の陰から、大柄な人影が姿を現す。大股で若い男の人の背後に回り込み、首根っこをむんずと掴んだ。
「え、ちょ、待っ――わあぁ!?」
手足をばたつかせながら、若い男の人がずるずると引きずられていく。二人の姿は校門をくぐり、あっという間に校舎の陰へと消えていった。「まだ心の準備が……」などと聞こえていた声も、次第に遠ざかって消えていく。
「何だアレ……」
ぼそりと、誰かが呟くのが聞こえた。窓の外を覗き込んでいた全員が、一連のやり取りを見て困惑のあまり固まってしまっている。
それでも興味の対象がいなくなったせいか、少し経つと生徒たちが様々な方向に散りはじめた一人また一人と窓際を離れ、俺だけがその場に縫い止められたように窓の外を覗き込んでいる。
「松ノ木、さん……」
自転車に乗った女性が、校門の前を横切っていく。静けさを取り戻した街の風景を眺めながら、俺は少し前までそこにいた人物の名を、無意識のうちに呟いていた。
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