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「――で、これどういう状況?」
「ごめん、私にもよく分かんなくて……」
理科室の入口前で、俺と美代は困惑しながら部屋の中を覗き込んでいた。
授業で何度も使っている黒い机には、文字や地図の書かれた白い紙や新聞紙が散乱している。二つの机に挟まれる形で取り付けられたシンクの側には、スマホが画面を上に向けた状態で置かれていて、隣にはペットボトルのコーヒーが飲みかけの状態で置かれていた。スマホもペットボトルも、シンクに落ちそうで落ちないギリギリの位置にある。
そして散乱した紙類の上には、さっき外で見かけた男の人が突っ伏していた。両腕を真っ直ぐ前に伸ばし、頭には何故か雑誌が開かれた状態で被さっている。
「もう嫌だ……早く帰りたい……」
寝言なのか呻き声なのか、男の人は生気のない声で何度もそう呟いていた。どうしてこの人がここにいるのか、どうすればいいのかも全く判らず、俺と美代は無言で互いの目を見合わせる。
「何だ、もう来てたのか」
背後からの声に、美代と揃って肩を跳ね上げる。振り返るといつの間にか津上先生が立っていて、その後ろではリュックを背負った葵が顔を覗かせていた。二人の視線は俺たちではなく、理科室にいる男の人へと向けられている。
「先生、あの人は?」
「消防の奴だよ。今年入ったばっかの新人らしいがな」
「そういえば……」と美代が小さく呟く。対する俺は、消防という身近な言葉に思わず身を引き締める。
「ほら、異空間とか、現実離れしたものが絡んでるとはいえ、あれも一応災害の一種ってことになってるから。たまに学校に来て貰って情報を共有したり、指導して貰ったりしてるのよ」
「あー……なるほど」
消防の人間がいることに疑問を抱いたと思われたのか、美代がすかさず説明をしてくれた。実際は救急車の中で話を聞いたときから、いつかこんな時が来るんじゃないかと思っていたのだけど、そこまで言う必要はないだろうと黙っておくことにする。とはいえ、頭の回る美代のことだから、いつかは俺の不安にも気付かれてしまうだろうけど……。
「ところで、あの人は?」
二階から見えたもう一人の姿を探して、俺は一歩前に進み出る。理科室の中を覗き込んでも、見知った人影はどこにもいない。
おかしいな、と思って目を動かした矢先、背中に突然強い衝撃が走った。
「こんちはーっす!!」
元々の力の強さと、不意を突かれたことによる驚きで大きく身体が前に傾く。あまりにも強烈だから、心臓が口から飛び出すかと思った。
だけど、こんなことをされるのは初めてではない。声が大きかったり、妙にスキンシップが激しかったりするところは、俺が小さい頃から変わっていないのだ。
そういえば、今理科室にいる男の人も外で同じようなことをされていた。ひょっとして職場でも同じことをしているのだろうか、と思いながら俺は背後を振り返る。
つい最近も会ったばかりの、見慣れた姿がそこにあった。
ただ立っているだけなのに、この場にいる誰よりも大きいせいで一際強い存在感を放っている。なのに威圧するような雰囲気は全くなくて、不思議と安心感すら覚えてしまう……。
「よう」
黙って俺と目を合わせた松ノ木さんは、少し間をおいてから微笑んでみせた。いつもと全く変わらない表情に、俺も自然と笑みを浮かべる。
「何だ、知り合いか?」
妙にくぐもった声で津上先生が言う。不思議に思って声がするほうへ目を向けると、どういうわけか松ノ木さんの手にした上着が津上先生の顔をすっぽりと覆い隠してしまっていた。津上先生の手が伸びて、裾の部分を乱暴に鷲掴みにする。
「おっと、悪い悪い」
松ノ木さんが上着を引っ張ると、眉間に皺を寄せた津上先生の顔が露になった。服から手を離した津上先生は、恨めしそうに松ノ木さんを睨みつけている。
いつの間にか美代は身体を縮こませているし、葵は両耳に手を押し当てたまま固まっている。姿を現しただけで嵐を呼ぶような、良くも悪くも騒がしいところもいつもと同じだ。
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