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「生きてゆくにはこれくらいしか、うちにはできひんのどす」
「哀れな」
その言葉におしずは、かっとなった。
同情されても嬉しくもない。睨むように、おしずは男を見やった。
「返しておくれやす」
「俺の役目がら、こいつは返すわけにはいかないところだ」
「役目?」
憤慨して目を剥くおしずに、男は初めて笑った。
(ま・・)
その笑顔に、不覚にもうろたえた時。男が、
「知らなくていい。俺もこいつは見なかったことにする」
そう言って財布の束をおしずの手に持たせた。
おしずの手に触れた男の手は、驚くほど硬く。
財布を胸元にしまいながら、おしずは男を探るように見つめていた。
「何だ」
その執拗な視線に、男はもう一度笑った。
「・・あんさん、どない方です」
「何故知りたい」
「・・・」
わからない。ただ、これきりというのは嫌だと思う。
「せめてお名前だけでも教えておくれやす」
「言ったら俺の役目も知ることになる。さすれば、おまえはその財布を俺に渡さなくてはならなくなるが。いいのか」
「そない有名なお方どすか」
嘲るようにおしずは返した。役人か何かだろう。
構うもんか、と思った。
「あんさんが胸ひとつに納めておいてくらはったらええことどす」
「困った女だな」
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