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こんな殺風景なマンションに一人でいても仕方ない。だいいち、期待していた豪華なディナーやワインもない。毎年、イザベルは、プレ・ロティ(ロースト・チキン)をオーブンで焼いてくれた。背脂とローズマリーの香りが家じゅうに漂っていた。あの、美味しい皿は、もうテーブルに出て来ないのか?
それに、手元にある深紅の薔薇は、飾る花瓶ももはやない。
まだ時間も早いので、俺は行きつけの店に出掛けることにした。
大通りに出てタクシーを拾う。銀座は地下鉄でもそんなに遠くないが、今はそんな気分じゃない。運転手が目ざとく薔薇の花束をバックミラー越しに見つけて、「お客さん、プレゼントですか?」と訊いて来る。
余計なこと言いやがってと思いながら、「まあね。」と軽くかわす。タクシードライバーに、いちいち身の上相談している暇はない。
6丁目の交差点で降りて、いろんな飲み屋が集まる雑居ビルへ向かう。
そのジャズ・バーは、地下一階にある。エレベーターはなかなか来ないので、階段を使う。花束を落とさないようにしっかり胸に抱えて、暗くて見えにくい階段を下りて行く。重めの扉を引くと、まだ第一ステージが始まる前だった。
雇われママの蘭子が直ぐに俺に気づいて、「まぁ、須藤さん、今日は随分早いお出ましで。」と声を掛けてくる。
「はい、これ、ママに。」と花束を渡すと、「えぇ、私でいいの?他にあげるべき女性がいらっしゃるんじゃないかしら。」と皮肉っぽく言う。
「まぁ、いいじゃないか、ヴァレンタインなんだから。」
すると、どこからともなく、友人の真鍋が近寄って来て、「えぇー、バレンタインって女が男にプレゼントするんじゃなかったっけ?」と訊くので、「フランスじゃあ、男女問わずプレゼントするよ。」と答える。
「へぇ、奥さんがフランス人だと違うなぁ。」
ドキッとしたが、できるだけ平静を保ち、「そういゃ、お前、海外はアジアばかりだったっけ?」
「あぁ、悪かったなぁ。洋行帰りさんとは違わぃ。」
「洋行?」と、俺は、余りにも古い言葉遣いに吹き出した。
「で、今日のお目当ては?」とママの蘭子が訊くので、とにかくあのマンションを飛び出したかった自分を思い出して、少し気色ばんで、「いゃ、マイ・ファニー・ヴァレンタインが聴けるかなと思って。」と誤魔化した。
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