自分をなくした男

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自分をなくした男

 電車に乗っていました。それだけがぼくにとって確かなことで、どこから乗ってどこへ行こうとしていたのかは覚えてはいません。とても心地よくて、長い夢をみていたように思います。  ――まもなく、N市中央駅、N市中央駅、お降りのお客様は…  車内アナウンスがきこえて、目をこすりながら立ち上がりました。ここはどこだろうとあせりました。最初に思ったのが、乗り過ごしてしまった、です。それ以外にはありません。とても混んでいました。電車が止まると他の客とともに降りました。まったく見知らぬ駅でした。 ホームに足をつけた瞬間、なにか大切なものがなくなっているのに気づいて、はっとしました。忘れ物をしたんだ、とすぐさまポケットをまさぐりました。財布はなくなっていませんでした。切符もありました。鞄も手に持っています。思いつく大切なものはみな持っていました。  でもやっぱり、なにかが足りない、きっとあの電車の中に置いてきたんだ、と振り返ったとき、ぼくは、あっ、と叫んでしまいました。     
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