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昼食を食いはぐれた。昼下がりで風呂もまだ湧いていない。散々だ。
井戸に桶を落とすと薄氷の割れる音がする。こんな花冷えのする時分に行水などたまらない。絢鷹は身を清めるのをやめた。
(畜生。こんなはずじゃなかったのに)
忍びの者にとっては自分の身体こそ道具だ。だが、どうせなら初夜を捧げたい人がいた。
きっと、頭領も知っていたのだろう――。
正月の賑わいが過ぎたころだったか。絢鷹は頭領、伊右ェ門に呼ばれた。
改まっての呼び出しは決まって肝心な話だ。気を引き締めて参じると、そこには自身の世話役も同席している。思った通り、張りつめた空気だ。
「絢鷹よ。お前にもそろそろ仕事を任せたい。だが一つ。確認せねばならないことがある。正式にこのまま参鳥派で働くか。それとも虚駆派を再建するか。お前には選ぶことができる」
十数年も前のことだ。〈奸〉の頭角ともいえる派閥、虚駆派が、とある城に根城を襲撃された。
協力関係にあった参鳥派が馳せ参じた時すでに遅く、もはや壊滅の状態にあった。
だが当時、参鳥派の中堅であった伊右エ門は焼け野原も同然の跡に、ただ一人の生き残りの赤子を見つけた。その赤子こそ絢鷹だ。
伊右エ門は赤子を連れ帰り絢鷹と名付け、参鳥の根城で育ててきたのだ。
そして時は行き、絢鷹も今やもう一端だ。だが、伊右エ門はこのまま素知らぬふりで絢鷹を使うのは気が引けた。
〈奸〉の頭角、虚駆派はかつてその名の通り、虚ろな世を正し駆け廻る義賊の集団として一目置かれる派閥だった。
古くは“要は山賊”とまで言われていた〈奸〉を、世に忍びとして認めさせたのは虚駆派の働きといっても過言ではない。
参鳥派は虚駆派から派生した派閥。同士の危機には鳥のように野山を越え参じる役割を持ち、お互い密にかかわっていた経緯がある。
頭領の座に就いた今、伊右エ門が思うのはもしも絢鷹に気持ちがあるならば、懇意にしていた虚駆派の再建に一役買ってもいいということだ。
「もし、お前が虚駆を再建するつもりならば、もちろん手を尽くすつもりだ。どうだ? 絢鷹よ」
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