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(やった! 辻里さまが相手をして下さる!)
夢みたいだ――。絢鷹は飛び跳ねそうになるのを必死でこらえた。
辻里は絢鷹の世話役だ。
伊右エ門は虚駆で拾った赤子を直属の手下である辻里に託した。その手で育てられた絢鷹にとっては辻里は育ての親のようなものだが、肉親の情ではないとはっきり分かる特別な思いがある。
長年、絢鷹は辻里に好意を寄せていた。
――それは恋心だ。
「まだひと月ある。ま、いずれな」
頭領の部屋を出るなり、辻里はいつものように絢鷹の頭に手を置き子供をあやすように撫で付けた。
それからというもの、絢鷹は毎晩入念に風呂に入った。いつ、その日が来ようとも、準備はとうに出来ている。
だが辻里はそんな調子で言ったきり。そうこうしているうちに長期の任務に出掛け、辻里はいまだ戻らない。そして現在に至るというわけだ。
気怠さと情事の残り香が漂う身体をそのままに、絢鷹は半ばやけになり頭領のところへ行った。
「頭領。只今、大山さまの手ほどきを受けてまいりました」
「そうか。どうだ? 体の方は」
「まったく問題ありません。大山さまは丁寧にして下さったし、私も教わった通りの準備をしておりましたので」
「よし。あとは明後日、初仕事だな。結局、辻里は戻らずか――」
「そうですね。……お忙しいのでしょう」
そうだ。辻里は戻らない。
あれほど待ち焦がれていたこの日が、塵ほどつまらぬものになった。
(畜生。これでもう、生涯あの人に触れることは叶わない)
その後、辻里は何事もなかったかのように戻り、絢鷹の初夜について触れることも無かった。
絢鷹もいつまで拘っていても仕方なし。せめて、もう幼子ではないと辻里に認めてもらえるよう働いた。
意欲的に任務をこなし、一人前の忍びとして申し分ない務めを果たしていく。絢鷹は優秀であった。
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