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「どうした。お前が俺を呼んだのだろう」  低く響きのある声に我に返る。  成人男性の姿を(かたど)っていたが、人間でないのはあきらかだった。容貌が微妙に作りものじみているというだけでなく、彼の周囲だけが光を吸い取ったかのように一段暗いのだ。 (まさか本当に悪魔が現われるなんて。しかもこんな、児童書で――)  床に開きっぱなしになっている『願いをかなえるおまじない百科』に視線を馳せ、思わず目を見開いた。  悪魔の召喚方法のページがなかったのだ。あの、黄ばんだ古めかしいページが。  腰を浮かせたあたしに、悪魔は言った。 「この場から出ないほうがいい。魔法陣は結界だ。契約を交わす前のおまえの身が保証されるのは、この中にいる間だけだからな」 「……契約?」  鸚鵡返しに聞き返すと、悪魔は眉をひそめた。 「おまえは何の為に私を呼び出したのだ?」 (何のためって、それは……)  第一志望の大学に合格したいからだった。だが、もうそんなことを願う気になどなれなかった。  本当に悪魔を召喚してしまったからだ。 「願いを三つかなえてやる。それと引きかえに、おまえの死後にその体と魂をもらう。これが条件だ」 「ちょっと待って」  あたしは悪魔を見上げた。 「その羽――本物なの?」  悪魔の背には黒々とした大きな羽があった。こうもりのような翼だった。閉じられているにもかかわらず、高さは頭を超え、先は床につきそうなほどだ。  広げたらさぞ大きいだろう。  思わず手を伸ばしかけたあたしに、悪魔はぴしりと冷たく言いはなった。 「翼に触れてはならない」  高圧的な口調に驚いて、あたしはぱっと手を引いた。  おまえなどが触れてもいいものじゃない――悪魔の眼差しがそう言っていた。  あの目を知っている。ある種の大人が、ある種の子供に向けるまなざし。歳を重ねたってだけで無条件に立場が上だと勘違いしている、頭の悪い大人と同じ目だった。偽善ぶっていないぶん、悪魔の態度はどんな大人たちよりも冷ややかではっきりとした侮蔑があらわれていた。  気に入らなかった。 「《それ》が張りぼてかどうか、確認しようと思っただけよ」  かたちのよい眉がかすかに引き攣った。大人の顔色を見て生きてきた子供ならすぐに気づく。あたしの言葉にかちんときたのだ。  負けじと睨み返す。日常で大人の男に理不尽に蔑まれたとしても、こらえるしかない。だけどこの男は人間ではない。人間でないなら、我慢することなんてない。  そこではっとした。――相手は悪魔である。怒らせなんかしたら、とんでもないことになるのではないか。  悪魔というくらいなのだから、その道の専門家のようなものだ。人を害するありとあらゆる方法に長けているに違いなかった。  しかも人間社会の住人ではない。何をしようが法に触れることはないのだ。おそらく良心だって欠如しているに違いない。悪魔なのだから。きっとどんなひどいことでもやってみせるだろう。 (腹いせに命を取られてしまうかもしれない。食べられてしまうかも……頭からがりがりと)  たまらず顔を伏せた。冷たい汗が背を伝ってゆく。 (痛いのは嫌……!)  ふと眼前を覆う影が揺らいだ気がして、あたしは小さく悲鳴を上げた。 「張りぼてかどうか、その目で確かめてみるんだな」  悪魔は裾をひるがえし、くるりと背を向けた。
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