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図書館についてすぐ、二階に向かった。学習スペースではめずらしく女子中学生の集団がテキストを並べていた。彼女らはべちゃくちゃとうるさくしゃべっていたのだが、あたしに目をとめると途端に口をつぐんだ。よほど殺気だった顔をしていたのだろう。
その横を素通りし、窓際の席を陣取ると、叩きつけるように数学の問題集をテーブルに広げた。
数学は中学までは大好きだった教科だ。高校に入って大嫌いになった。数学教師のせいである。
女生徒を舐め回すように見やる獣じみた顔が思い出され、吐き気が込み上げた。慌ててそれを脳裏からうち消し、数Ⅱの微分積分の単元を開く。
公式の一覧が目に入り、思わず感嘆の息が漏れた。
数学はこんなにも美しいものであるのに、どうして嫌いになっちゃったんだろう。
すべて大人のせいだ。価値あるものを、ことごとく穢してゆく。
(この髪だって――)
あたしは頭をがしがしとかきむしった。
(――だめだ。集中できない)
参考書を閉じて、立ち上がった。このままでは貴重な時間を無駄にしてしまう。気分を変えたくて、ペンケースで場所取りをして学習スペースから出た。
背後で女子中学生の囁き声がひそひそと聞こえてきたが、かまいやしなかった。
廊下に出たとたん、甲高い声が響いてきた。
手すりから下を覗き込む。階段を降りてすぐの児童書のコーナーで、三歳くらいの男の子が笑いながら駆け回っていた。それを母親が「静かにね」といさめている。別のお母さんはベビーカーを片手で揺らしながら絵本を選んでいた。
どのお母さんもみんな優しそうで、穏やかそうで、少し疲れているように見えた。
(そういえば、しばらくお母さんの顔、見てないな……)
唐突に母に会いたくなった。けれど、帰っても家には誰もいない。
母は明け方ごろに帰宅し、あたしの朝食とお弁当の用意をして眠る。そして昼過ぎに起きてあたしの夕食を用意し、仕事に行く生活をしている。
十七であたしを産んだ母は、そんなふうにして女手ひとつで育ててくれた。
父親の話は聞いたことがない。母は父について話そうとしないし、あたしも別に聞こうとしなかった。知りたくもない。
母を妊娠させ、責任もとらずに逃げ出したのだ。絶対にろくな男じゃない。
(ろくな男になんて、産まれてこのかた会ったことないけどさ)
男なんて大嫌いだ。自分の半分もの遺伝子が男から引き継がれているなんて、考えるだけでおぞましく、鳥肌が立った。
無邪気な声音に引き寄せられるように階段をおりた。無機質な図書館の中で、児童書コーナーだけは優しい色あいにあふれている。床は明るいベージュの絨毯が敷いてあり、硬い椅子のかわりにパステルカラーのクッションやソファーが置かれていた。大きい窓一面には画用紙で作られたくまやうさぎのキャラクターが張られていて、とても可愛らしい。
あたしは背の低い本棚を前に、しゃがみこんだ。
(ぐりとぐらシリーズ、クレヨン王国シリーズ……よく読んだなぁ)
あまりの懐かしさに、胸が熱くなった。そうだ。あたしは本が大好きな子供だったのだ。
保育園の時も小学生の時も、友達がいなかったから本ばかり読んでいた。中学生になると、没頭の対象が読書から勉強に変わった。やっぱり友達はできなかったので、誰にも邪魔されることなく思うぞんぶん勉強にのめりこめた。
おかげで成績は常にトップだった。勉強だけでなく運動もできたし、容姿もひとより優れていた。優れていれば孤立していても劣等感をおぼえずにすむし、哀れに思われなくてすむ。
ひとりぼっちのあたしにつけ入る隙がないことは、一部のクラスメイトをひどく苛立たせたようだった。なので小中学生のころは、うちが母子家庭で母が水商売をしていることをネタにずっと嫌がらせを受けた。あたし本人ではどうしようもないことで何とかあたしを傷つけようとしてくるのだ。
そうゆうことをするのは決まって男だ。女は自分より優れた人間に対する悪意は僻みととらえられかねないことを知っている。あたしのことが気にくわなくて、なんとか傷つけてやりたくても、よほど周到に舞台を整えないかぎり自分をおとしめて終わることになりかねないことを知っている。そして女は、そんなリスクを安易に負ったりはしないのだ。
それに対して、自分がどう思われようがなりふりかまわず相手を痛めつけようとするのが男だ。だから男は大嫌いだ。
幼い頃の嫌な記憶が頭の隅にふつふつと浮かびかけ、あたしはあわてて意識を本棚に向けた。
その時、目の前に『願いをかなえるおまじない百科』という文字が飛び込んできた。
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