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「なんじゃ、なんじゃ、市松」
夜叉若が粗っぽい声音を飛ばし、話に割って入ってきた。小猿の天が夜叉若の耳朶をいじくっている。
「石田の佐吉の話などやめんか。槍を持ち上げる事もできんような、あんな青瓢箪。思い出すだけで反吐が出るわ」
「このように夜叉若とは全く合いませんでしたが、俺は佐吉が結構好きだったのです。俺や夜叉若が知らない事を沢山知っておりましたし」
「いかにも上からくるあの物言いが俺はどうしても気に食わなかった。何やら馬鹿にされたような気分になったものよ」
夜叉若が言って、ぷい、と横を向いた。天が小さな前足で夜叉若の眉に触れている。
「そんなに優秀な男か、市松」
「はい、親父殿。それはもう。古今東西の書物をいくつも諳じれますし、軍学をよく知っています。また、茶道や華道。礼儀作法にも佐吉は明るいのです」
「槍が遣えん、槍が」
横を向いたまま夜叉若が吐き捨てた。
市松よりひとつ年上ということは12歳になる。秀吉は件の石田佐吉という童に興味を抱き始めていた。
「市松よ、石田佐吉という男は今どこに住んでいる?」
「生家である近江国坂田郡(現、滋賀県長浜市)に戻り、家族と共に暮らしていると聞いています」
「ここから近いじゃねえか」
嬉しそうな表情で市松が頷いた。
「だから、お話ししてみたのです」
「1度会ってみたいな」
市松は石田佐吉の話を続けた。秀吉は刻を忘れて市松の話に耳を傾けた。いつの間にか夜叉若が居なくなっていた。小猿の天だけが指をしゃぶって秀吉を見上げている。秀吉を首を巡らせて夜叉若を捜した。広場に夜叉若の姿を見つけた。でかいのでよく目立つ。夜叉若は兵卒に混じって演習に参加していた。
「あの馬鹿」
秀吉は額を抑えて言った。
「誰だ、夜叉若の参加を許可したのは」
夜叉若が徒立ちで調練用の棒を振り回している。
偶然か騎馬兵がわざと打たせたのではあろうが、夜叉若の棒が騎馬兵の体を打った。騎馬兵の体が中空を舞う。騎馬兵が地面に背中を打ちつけた。
演習が止まった。静寂の後、どよめきが起きた。それはすぐ、喊声になった。喊声はやがて鯨波となって、横山城を包み込んだ。たちまちのうちに夜叉若の回りに人の輪ができた。
夜叉若を称賛する言葉がいくつも聞こえてきた。
「本気で打ち掛かってきた騎馬兵をぶっ飛ばしたのか、あいつは」
秀吉は呆れて言った。
「まあ、夜叉若なら、あれくらいは」
市松の声は落ち着いていた。
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