《54》

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 信玄の嫡男、勝頼は、ひとかどの男である、と康政が言っていた。 康政は同盟交渉で甲斐に行った事がある。その時、勝頼と夜通しで語り合ったらしい。 信玄に頼まれて勝頼に軍学を教示したのだという。 苛烈だがどこか素直な所もあり、何でも吸収できる男。まだまだ成長するであろう、というのが康政の勝頼評だった。齢は忠勝や康政よりふたつ上だから、今は26歳だろう。 徳川と武田が敵対するなら、武田勝頼はこれからも長く戦ってゆく相手である。否が応でも忠勝は勝頼を意識した。 「それにしても」 半蔵が言った。 「お前はよく忍に襲われるな。首の値段が高い割りに隙が多いからだろう。以前は今川の忍に襲われたのだったな。確かその時、お前の側室は腹の子を流して、2度と子を産めぬ体に」  忠勝は踏み込み、抜き身の太刀を半蔵の胴に打ち込んだ。最初からそこに居なかったかのように半蔵初め、黒装束の軍団の姿は消えていた。 「不穏な空気が流れ始めている」 空から半蔵の声が聞こえた。忠勝は空を見上げたが、半蔵の姿はなく、蒼い美空がどこまでも拡がるばかりだった。 「せいぜい気をつけることだ、本多忠勝」  半蔵たちの気配が消えた。 「くそ」 忠勝は吐き捨てて太刀を鞘に納め、屈んで小松に目線を合わせた。 「小松すまん。怖い思いをさせてしまった」 「ちっとも怖くなんてなかったですじゃ」 「無理はしなくていい」  小松が首を横に振る。顔に泣いた痕跡は一切見当たらなかった。 「無理はしておりませんですじゃ。小松は本多忠勝の娘ですじゃ。だから、なにも怖くないのですじゃ」  忠勝は小松の体を抱きしめた。安心したのか、小松はやっと声をあげて泣いた。 忠勝は小松が泣き止むまで、小さな背中を撫で続けた。  夕刻、浜松城に戻った忠勝は本丸に登城し、家康に会った。大広間には酒井忠次も居た。 家康は最近手に入れたヤクの毛を施した唐の兜の手入れをしているところだった。  忠勝は武田の忍に襲われたことを家康に報告した。 「おのれ信玄。舐めた真似をしくさる」 家康は表情を歪め、怒りを露にした。 「すぐに出陣じゃ。甲斐に乗り込み、信玄の老い首、即刻叩き落としてくれるわ」 「冷静になれ、お館様」 忠次が静かな声で言った。 「こちらの動員できる兵力はせいぜい8千。武田は3万近い兵力を擁している。しかも、ほとんど騎馬隊で精鋭揃いだ。こちらから攻めかかったところで1日で粉砕されるだけだろう」
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